9ヶ月間の日本の状況の変化
小栗忠順ら訪米団が、日本を留守にしていた9ヶ月の間に、国内の状況はだいぶ変わっていました。
まず、彼らに訪米を命じた大老井伊直弼は、桜田門外でぶっ殺されてました。暗殺です。桜田門外ノ変。
そして攘夷の嵐が日本中を吹き荒れていたのです。
ということで、アメリカに行ってきた訪米団は、ちょっと都合の悪い人たち、目立っちゃダメよという状況。
しかし、小栗忠順は、日本の将来のためにアメリカの文明の見聞を説き、政治・軍備・商業・産業について外国を模範とすべきだと堂々と主張しました。
空気が読めないとおっしゃらずに、読み続けて下さい。
たくさんの役職についた小栗忠順
外国奉行、勘定奉行、南町奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、海軍奉行並、陸軍奉行並等々。
小栗忠順はたくさんの役職につき、しかも勘定奉行なんぞは4回くらいなってます。
小栗忠順がアメリカから帰国したのが1860年9月、明治維新は1868年。小栗忠順は維新の前に役職をクビになってますから、わずか7年ほどの間に数多くの役職を歴任したのです。
これが、ぼくには不思議でした。
さまざまな問題に行き当たり、世界を見てきた小栗忠順の発想が先輩方とだいぶ違っており、結果、自分の意見が通らない、それはアカンという考えが通っていく現実に出会し、その都度頭にきて辞表を書いてクビになるということを繰り返したようです。
しかし、幕府としても新しい考え、自由な考えをする人材が貴重だったので、次々と小栗に役目を与えたのです。
あ、末期の幕府のありようというのは、大河ドラマで刷り込まれたイメージとは、かなりちがうようです。
この頃の幕府は、身分にそれほどこだわらず、優秀な人材を登用してたような感じがします。
このシリーズの今後
いろいろ調べると、幕末、明治維新についてのイメージは、ぼくの頭の中のものとは違うようです。
ひょんなことで、小栗忠順という人物に興味を持って、
この本をネタに、ブログを書き出したのですが、もっと調べてみたいと思うようになってきました。
同時に、この小栗忠順の対抗馬でもある勝海舟についても不思議だと思っていることもあるので調べたい。
ということで、さらに調べた後で、小栗忠順の帰国後について書こうと思います。
ということで、このシリーズは一旦お休みします。
ただ、小栗忠順の盟友である栗本鋤雲について、とても興味深い人なので、次にちょっと紹介の記事をアップしておく予定です。
このシリーズの過去の記事