70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

異国の都合 明治維新5

最初に言い訳をしておきますが、以下に書きますことは私が過去に読んだり聞いたりしたことの微かに私の記憶に残っていることをもとにしたものです。

手許にノートが残っているものもあるし、残ってない、或いは探すのが面倒なので、この信頼性の薄い私の記憶だけで書いているものもあります。

記憶違い、いい加減なこと、私の勝手な思い込みなどによって書かれてますので、不正確さ、或いは間違いがある可能性があることを認識した上で読んでください。私は無責任な男です。

 

ヨーロッパの皆さん方

大航海時代

船舶建造技術、航海技術の進歩によりヨーロッパの国々は、15世紀の半ばから大航海時代を迎えました。

当初は主にスペインとポルトガルですね。両方ともハプスブルグ家から王様が出ています。

このスペインとポルトガルが、世界を、地球を二つに割って、それぞれで分けたりしてたんです。

 

日本は、そのスペインとポルトガルが世界を割った線の上に存在し、かなり微妙な状況でした。

この時は、まだ戦国時代だったりします。

 

戦国の覇者、織田信長は西洋のものを非常に喜びましたが、連中の魂胆を見抜いてました。

その後の支配者、豊臣秀吉徳川家康も同様です。

で、この人たちは、西洋から野心を持って来日してきた連中を、脅してビビらせ日本に手を出しにくい気持ちにさせようとしました。

 

やはり戦国時代で戦いに慣れた日本の武将は強かったですから。

スペイン、ポルトガルのアジアの拠点を攻めたるぞとか言ってたりしてました。秀吉は朝鮮出兵から中国方面を征服してインドあたりも占領したるとか、フィリピンに兵を出すとか言って、宣教師たちの顔を青くさせてたのです。

 

実際、戦国時代が落ち着いて、武力自慢に需要がなくなった頃、日本人の傭兵、要するに暇を出された戦国武将の成れの果てがアジアでブイブイ言わせてました。本当に強かったんです。

 

 

選手交代

世界を席巻したスペインやポルトガルは、その座を弱小国だったイギリスやオランダに奪われていきました。

 

理由の一つは、南アメリカを侵略していったスペインが、現地で銀とか金を好きなだけ掘りまくり、国に持って帰っていったことだと言われてます。

お宝をたくさん持って帰るのはめでたいのですが、国内の生産力に見合わないほどたくさんの金銀を略奪してくると、インフレになってしまうのです。

金鉱銀鉱の労働力としてインディオを奴隷として、危険なところで死んでもいいからどんどん働かせましたから、人も死にましたが金銀は訳もなく手に入ったのです。当時は経済理論なんかありませんから、インフレになるなんてことを理解できませんでした。

お宝がたくさんあるのに、必要なもの(この場合、武器とか兵隊)も高くなるので国庫はやせるのです。

そして、この人たち戦争もバンバンやりましたから、ますます財政は悪化しました。

そして、決定的な出来事として、イングランドの処女王エリザベス1世が、アルマダの海戦で、当時世界一と言われたスペイン艦隊をやっつけてしまったのです。

 

ちなみに、このアルマダの海戦は1588年、本能寺の変は1582年です。豊臣秀吉が関白になったのは1585年。関ヶ原が1600年、家康が将軍になったのが1603年です。

 

ということで選手交代。江戸時代あたりで日本に顔を出す外国といえば、蘭学とかいう通りオランダ、そしてイギリスあたりになってきたのです。

もちろん、こいつらは信用できない連中です。

アヘン戦争1840年あたりです。イギリスがヤクザみたいな酷いことを中国でしたのは、幕府も知っていました。

 

でも、イギリスとかは幕府が鎖国政策でみみっちく開けたドアから、遠慮しながら入ってくるだけで、日本を植民地にしようとかはしませんでした。

コストパフォーマンスを考えたからだと本に書いてありました。

戦えば勝てるだろうけど、サムライの腰にさした刀は、斬られると痛そうですもんね。手こずりそうです。

それにやっつけた後に手に入るものの価値についても冷静に考えて、コストと成果を計算したのです。

 

 

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国という国ができたのは、1776年7月4日。

日本は江戸時代の真っ最中。10代将軍徳川家治の時です。

田沼意次なんて人が権力握ってた時代。杉田玄白らの解体新書や平賀源内のエレキテルなんて頃です。

 

国ができたばかりの頃は、USAもよその国のことなんか気にしてられません。

それでも、だいぶ落ち着いてくると、アジア方面が気になります。しかし、アジアはヨーロッパの連中が好きなように食い荒らしていて、大体ナワバリも決まってきています。

 

当時、アメリカは太平洋で捕鯨を盛んにしていました。

連中、鯨の脂が目当てで漁をしてたんです。鯨油てのは照明に使われるのです。工場を操業するには灯りが必要だから、鯨油は大事なんです。

 

大きくて広い太平洋の中に、補給地が無いと捕鯨船は困るんです。

それに難破した時なども、乗組員を救助したり、本国に返してもらう保証が無いと不安でしょ。

当時はイギリスがアジアででかい顔をしてましたから、中継補給基地については、イギリスに頼む手もありましたが、ちょっと前に独立戦争をした相手だから頼みづらいです。

 

実際、難破船の乗組員を日本が助けてやり、本国に帰れるように世話してやったことは何回かありました。

アメリカは、日本人の程度が良いことを知ってたのです。野蛮人ではなく文化的で、交渉ごとの相手として十分な知性があることを理解していました。

ということでアメリカ大統領は、開国して条約を結ぼうという親書を、マシュー・ペリーという軍人に預けて、日本の扉を叩いたのです。

 

 

黒船あらわる

ペリーの乗った黒船は、1853年に浦和沖に現れて、日本中が大騒ぎになりました。

ペリーの任務は、アメリカ大統領の親書を日本政府に渡すことでした。

 

幕府はなんとか返事を先延ばし、1年後にということになり、ペリーは一旦引き上げます。

そして翌1858年に再来日して日米和親条約が結ばれて下田と函館の2港が開かれました。開国です。

 

さらに1860年日米修好通商条約が結ばれました。

 

この辺りの詳しいことは、また後で。

 

 

他の国も

アメリカとこのような条約を結んだ後、イギリスやフランスなど、他の国とも似たような条約を結ぶことになりました。

開国バンバンです。

 

 

この後、アメリカは南北戦争

明治維新に絡んでくる外国は、イギリスとフランスです。

開国の立役者アメリカ合衆国の名前はあまり聞きません。

どうした?

ご存知の方はご存知ですが、この辺りが世界史と切り離した日本史という学校教育の弱点です。

 

アメリカは、1861年から1865年にかけて南北戦争で忙しく、日本に首を突っ込む余裕はありませんでした。