幕末訪米団の話を書いていましたが、ぼくが不思議だな、すごいなと思っているのは通訳。
鎖国していた日本で、どうやって英語を勉強したのか、今度調べてみるつもりですが、不思議だし、すごいでしょ。
だって日常会話だけじゃ無くて、国と国との条約とか、工場見学とか勉強の際には専門用語が出てくるでしょ。
咸臨丸に乗り込んだジョン万次郎ならわかるんです。
土佐の漁師の彼は、乗り込んだ船が難破して、アメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカに連れて行かれ勉強させてもらい、捕鯨船の一等航海士等をして、10年後に日本に帰ってきたのですから。
英語がペラペラで納得します。
しかし、訪米団の本隊、ポウハタン号に乗り込んだ幕府から通訳として派遣された人たちって、幕臣、侍でアメリカなんかに行ったこと無かったのだろうと思うんですが。
ま、アメリカは突然やってきましたが、その前からイギリスは日本に来てましたから、英語は日本に入ってきてたんです。
福井の殿様の松平春嶽公は、自分で英単語帳を作ってたらしいので、教師がいたか勉強用の資料があったのだろうと想像します。だから、幕府で通訳としての仕事をしていた人たちも英語の勉強用資料を手に入れて勉強してたのかなと思います。
ポウハタン号には、立石得十郎という通訳が乗っていました。この人はオランダ語通訳です。オランダ語でも英語でも通訳だったらいけるだろうということなんでしょうか。
まあ、ポウハタン号にはアメリカ水兵がたくさん乗ってますし、日本からアメリカまで英語の実地勉強する日数はたっぷりありますから何とかなったのでしょう。
それでも、凄いことです。命じられて嫌とか言えない侍家業だから、やるしかないのでしょうけど。
外国語は外人慣れをしてたら、あとは気合いでなんとかなりますが、しくじると切腹ということもあるし、まあ大変です。
ところで、この通訳の立石得十郎さん、ポウハタン号に乗り込む前に、親戚の子を養子にして一緒に連れて行きました。
この子は、旗本の次男坊で、米田家に養子に出て、さらにもう一度立石さんの養子になった斧次郎です。立石さんは米田さんの親戚です。
斧次郎は、子供の頃から立石得十郎に可愛がられていたのでしょう、外国人の所にも連れて行かれて対応に慣れていて、横浜運上所(税関)で見習いをしてました。無給の通訳見習いということで立石さんが願い出て同行することができました。
斧次郎は、幼名が為八で、子供の頃から可愛がっていた立石得十郎はポウハタン号の中でも彼のことを「ため」と呼んでいました。
斧次郎は、ポウハタン号に乗り込むと、毎日アメリカ士官や水兵のところに遊びに行ってたので、どんどん英語が上達します。アメリカ水兵たちは、立石得十郎が斧次郎を「ため」と呼ぶのを聞いて、彼を「トミー」と呼ぶようになったのです。
トミーは17歳で若く、まあお調子者だったのでしょう無邪気で明るいのでアメリカ人にウケたらしいです。人気者。
イケメンだったらしく、アメリカの若い女の子たちがホテルに押しかけて、今で言う追っかけですか。
トミーブームって感じ。
立場が見習いなので、本人も気が楽だったのかもしれません。
トミーは、ホワイトハウスの歓迎ダンスパーティーで、市民との交流を楽しみ、懐紙をちぎって扇子であおいで舞い上げて、それが落ちてくると今度は女性たちが扇子であおいで喜んだり、行く先の駅で、一人だけ機関車の運転席からピョンと飛び降りて見せて女の子たちにアピールしたりと、なんかサムライとは思えないはしゃぎようです。
責任者で無ければ、当時の日本のサムライもこういうふうに行動できたんですね。
なんか、こういう話面白いなと思い、書いてみました。
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