70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

小栗忠順の盟友 栗本鋤雲って人、知ってます? 幕末から明治にかけての日本の近代化についてのキーパーソンです

栗栗コンビだなって、ちょっと思ったりしてます。

 

とりあえず簡単に小栗忠順って何?

幕臣小栗忠順についてのシリーズを書いていますが、この人は幕末に日本人で初めて幕府to政府の訪米団の主要メンバーでしたね。

で、帰ってきてから明治維新までの7年ちょっとの間に、いろんな幕府の重要な役目を慌ただしく拝命したって書きましたよね。

それがどうした? って思う人も多かろうと思います。

 

小栗忠順は、フランスの協力を受けて横須賀造船所を立ち上げて、幕府の西洋式軍隊を作り、フランス語学校を作り、反射炉式の製鉄所を作ろうと目論み、日本で初めての株式会社を作り、等々、結果として明治維新以後の日本の近代化に猛烈に貢献した人なんです。もちろん抵抗勢力はありましたが、僅かの間に上を説得したり、空気を読まずに自分の主張を繰り返したりして、なんとかやった人なんです。

ただ、色々あって幕末に幕臣をクビになり、挙げ句の果てに明治維新直前に新政府軍に囚われて殺されてしまいました。

 

で、アメリカ帰りの西洋を手本にした近代化なもので、完全に維新新政府が出来上がるまでは、ほら官軍メンバーって「攘夷」で外人殺せという主張でしたから、当然小栗忠順はダメダメな人、しかも本当に優秀だったので、幕臣クビになって官軍に抵抗するはずも無いのに、今のうちに殺してしまえと、とっ捕まえて罪状もはっきりしないままぶっ殺してしまったのです。新政府としては、とにかく小栗は悪人という扱いで、そのため歴史的に悪人のジャンルに入り、ずっと最近まで歴史の表舞台では取り扱わない人物だったのです。

 

 

で、栗本鋤雲

この鋤雲さん、瀬兵衛という名前なんです。鋤雲てのは号とかなんでしょうか。

小栗忠順と、昔からの馴染みで、小栗と共に日本の近代化のために働いた人です。ちょっと調べると、すごい人なんで、とりあえずご紹介。

 

ざっと履歴書みたいな

栗本鋤雲は、1822年に江戸の神田に生まれました。

生家は、喜多村という苗字で、幕府の医官の家です。お医者さん。

 

小栗忠順1827年に江戸駿河台で生まれました。旗本です。

栗本鋤雲は小栗忠順の5つほど年上になります。

旗本と言っても、小栗家はかなり上の方の家だったようです。安積艮斎という学者を屋敷内で囲って塾を開かせてました。

 

栗本鋤雲は8歳で、この安積艮斎の塾に入門します。

しかし病気がちだったので、塾を休み、数年して元気になってから再び塾に通いだします。

小栗忠順の方は、自分家にある塾ですから当然そこで勉強しています。

ということで、小栗と栗本は5歳差なのですが、同級生的な幼馴染になります。

 

栗本鋤雲(当時は喜多村瀬兵衛)は、とても優秀だったので、他にも有名な学者のところで学び、幕府の昌平黌に入学して成績優秀。

幕府の登用試験もバッチリの成績で合格します。

で、27歳の時(1848年)に、やはり医官の栗本家の養子となり、幕府奥詰医師となります。ここから栗本さんです。

 

この頃、幕府はオランダから蒸気船をもらいました。

これを観光丸と名づけ、築地に係留し、「蒸気船の見学、研修を志す者」を募集します。

栗本鋤雲、新し物好きなんでしょうね、これに応募します。

幕府奥詰医師という立場ですから、一応幕府にお伺いを立てて「いいよ」と言われて応募したのです。

しかし、幕府奥詰医師の頭、ボスの岡先生はとても保守的な人で、「漢方を旨とする幕府奥詰医師の身で、西洋船に乗りたいなんて不届きな」とお叱り。

謹慎処分を食らってます。

 

北の大地 北海道はでっかいどう

1858年、栗本鋤雲は幕府から函館への出向を命じられます。お医者さんとしての出向です。

蝦夷地は箱館奉行が仕切ってます。

このお奉行さんがいい人だったんですね。

割と好きなようにさせてもらい、栗本鋤雲は他の役の人たちと一緒に「医は国を治す」とか変なことを叫んで、蝦夷地の開拓なんかをしています。

この仲間の中に、洋学者 武田斐三郎(あやさぶろう)がいました。この人、後で活躍する人です。

 

後の市立函館病院の前身となる病院兼医学所を作って、医者の子弟を教育し、土地の貧者や娼妓たちの治療も行なったりしています。

薬園も作りますし、そこを通る川を整備して水運ができるようにしたり、蝦夷地に少ない松、杉、桑、その他の苗を育て、それを官林や道路、海岸に植栽したり、原野を牧牛場にして良質な南部牛を買い畜産を振興したりとか、やりたい放題の大活躍です。

 

このような事業の成功により、1862年には栗本は士分を得ます。医者から侍になったんですね。

樺太に渡り越冬し、択捉、国後を巡視して箱館に戻り、ロシアとの外交関係を論じる建議書を提出して奉行に誉められてます。

この箱館奉行の竹内保徳さんが、本当にいい人だったのだと思います。栗本鋤雲の味方。

 

ある日、奉行からフランス人宣教師メルメ・カションに日本語を教えてやるように言われます。

このカションさん、元々日本で最初のフランス公使ベルクールの通訳をしてて、どうもベルクールと馬が合わなかったらしく、公使館やめて箱館に来てたのです。

素朴な疑問として、公使の通訳だった人に日本語教えるって、どういうこと? と思うのですが。

でもこのおかげで、栗本鋤雲はカションからフランス語を教えてもらいます。二人はいい友達になります。教えてもらうのは言葉だけでなく、フランスの社会・政治の仕組みや国際情勢なども学べました。

もしかしたら奉行は栗本に勉強させてやり、いいコネを作らせてやろうと企んだのかも知れませんねと勝手に想像しています。

 

さて、1863年箱館奉行竹内保徳の推挙で、栗本鋤雲は江戸に戻ります。

幕府の昌平黌の頭取になり、翌年目付になりました。

 

さて、フランスの公使は次の人に交代となり、新たにロッシュさんが日本に着任します。

栗本鋤雲はフランス語ができますから、幕府からちょいと談判に行ってこいと言われて、フランス公使館に行くと、そこにはロッシュの通訳となったメルメ・カションがいたのです。再会ですね。

この栗本とカションの親密な関係が、その後の日仏関係に大きな影響をもたらします。

そして日本の近代化のためにフランスの力を借りようとした小栗忠順のためにも大いに役立ったのです。

 

日本とフランスの関係をちょっと

小栗忠順としては、自分が訪問したアメリカの力を借りたいところです。しかし、その頃、アメリカは南北戦争の最中で、とても海の向こうの日本のことなどに手を出す余裕はありませんでした。

イギリスは、なんせ中国で好き勝手をしていますから、とても信用できません。

ロシアは、対馬事件てのを起こしており粗野で信用がありません。

オランダは、この頃国力が衰えてきていたのでしょうか、商売はしたいのだけど、日本の助けになろうなんて考えは全くありません。

 

ということで、西洋の技術力を日本が学ぶ手助けを頼む国として、消去法でフランスが残りました。

そして栗本鋤雲とフランス公使館の良好な関係がありました。

 

 

今後の展開

以前にも書きましたが、他の資料も調べてから、この後のことを書いていくつもりです。

ちょっと間が空くかもしれません。

 

 

このシリーズの過去の記事