孝明天皇と原市之進が亡くなってしまい、ちょいと困った徳川慶喜でした。
でも、人柄は良くなくても、慶喜さん優秀な人だったみたいです。
将軍慶喜の幕政改革 結構優秀な人だったんですよ
幕末は、幕府と雄藩(長州とか薩摩とか)の対立があったのです。
外国に対しては、幕府とだけ取引しろよというのが、幕府の主張です。これは武器の取引を念頭に置いてのことです。
でも、外国としては、商売がうまくいけばそれで良いのです。
イギリスは、薩長との取引をします。
幕府は、それがけしからんということで、イギリスとはあまり取引をしないようになり、主にフランスと取引をします。
これは外国の商人との話で、幕府がイギリス政府と対立したわけではありませんよ。
フランス政府は幕府に対して協力的でした。
将軍慶喜は、軍の改革、政治の改革についてフランスの公使と相談しました。
軍隊改革
長い江戸幕府の時代の中で、武士が変質してきました。
戦国時代のように武士は戦闘のための軍人では無く、筆と算盤を持つ事務的な役人となってきました。
さらに武士が集団となった場合、家格と禄高を基準として格付けがなされ、そういう基準を基に軍勢が組織されます。
西洋の銃兵の軍隊は、組織内では全員横並び、その平等集団を少数の士官が統制します。
戦国時代よりもさらに武器が進化していた幕末では、昔ながらの武士たちが刀で切り結ぶという戦いでは到底勝利することができません。
個では無く集団。組織の考え方も変えなければなりません。
正直、武家による政治というものが大きく時代に遅れていて、より進んだ軍事力を持った諸外国が日本を訪れるようになり、その矛盾が噴き出してきたのが江戸幕府制が崩壊した原因であるのですが、それはそれとして、とにかく幕府も時代に追い付かねばと必死になりました。
全ての旗本を銃隊に入れ、遊撃隊という軍を編成。
幕臣に対して、その知行高に応じた金銭を供出させ、その金で傭兵を雇い近代的歩兵軍を創設。
この歩兵軍(伝習隊)に、フランス軍士官による訓練をしてもらう。
なお、すでに1865年にフランスの技師や教師などを招き、横須賀造船所や横浜仏語伝習所などが開設されています。
政治組織の改編
江戸幕府は、だいぶ昔から老中を中心とした重臣たちの合議制で政治を運営してました。あんまり将軍が直接政治をするということはしてなかったのです。ちょっと天皇の立ち位置と似てますね。
でも慶喜は、自分が政治の頂点になります。今で言う総理大臣の位置です。
で、今まで総理大臣の位置だった老中首座を、自分の補佐役にしました。現在の官房長官みたいな。
そして各老中たちに、現在の各大臣のように、それぞれの専門の守備範囲を与えます。国内事務総裁、外国事務総裁、会計総裁、陸軍総裁などです。
さらに、今まで老中は譜代大名しかなれなかったのですが、有能な旗本を取り立てたり積極的な人材の登用をしました。
外交等の改革
初の駐外公使として、外国奉行をフランスに駐在させます。この人は日本の支配者は将軍だとヨーロッパに宣伝し、理解させたのです。
そして本当かどうか知りませんが、フランスから600万ドルの借款をしようとしたとか、実際に借款したとか。これで軍事改革や武器弾薬・艦船などの購入を行なったとか。
実施には至りませんでしたが、フランス公使は年貢以外の収入を提案しました。
固定資産税、営業税、贅沢品に対する物品税などです。
もしこれができたら、幕府体制はそれまでの米の石高に基づく農本主義から脱して、近代国家への道に進めたかもです。
幕末に見掛ける政治理念
福井に横井小楠がいたせいでしょうか、福井の由利公正や松平春嶽公の実現したいとする考え方って、議会制民主主義みたいな感じです。
坂本龍馬も似たような考えをしてました。これは彼が福井に来たときに横井小楠や由利公正らと飲んでた時に吹き込まれたのでしょうか。
で、生涯怖いと思った男が二人いて、一人は横井小楠、もう一人は西郷隆盛だと言った勝海舟も、なんかそんな感じの考えを持ってました。坂本龍馬に吹き込んだのは、その親分の勝海舟だったのかな。
もちろん参政権についての考え方は今とは違ってますよ。
で、徳川慶喜も学者の西周(にし あまね)に、新しい政治構想を提出するように命じてます。
宰相を中心として内閣と国会が存在し、議院は上院と下院に分かれ、上院は大名で、下院は各藩主が人物を選んで議員に任ずる。天皇は政治には関与せずで、今の制度と似ています。
慶喜は、全ての藩を廃止して、郡県制度にして中央集権の近代的統一国家を目指していたという話もあるらしいです。
「大政奉還」と言ったって本気じゃ無いのさ
基本的に、幕府てのは天皇から日本の政治(大政)を委任されているだけだという考えがありました。
元々日本の政治は天皇のものだと言うわけです。
そんならさ、お前らが倒幕なんて言うんなら、天皇からお任せされているって言うその「大政」を天皇にお返ししちゃうぜ。それで文句無いだろう。
と言う、とんでも無いことを徳川慶喜は言い出します。1867年のことです。
自分を気に入って応援してくれていた孝明天皇は死んじゃうし、いつの間にか朝廷では薩摩の大久保利通や西郷隆盛、そして倒幕派の公家たちが幅を利かせてるし、なんか適当に倒幕の密勅が出されるって話も聞いちゃったし、と言うことで、その倒幕の密勅が出される同じ日を狙って、大政奉還しますと言ったのです。
でね、急に大政奉還されても朝廷が困るのは目に見えてます。
だいたい大政奉還するとは言ったけど、将軍を辞めるとは言ってねえし。
朝廷に大政をお返しして、それで朝廷が「これまで通り慶喜やってよ」と言ってくれれば、そんで文句なく江戸幕府は続きます。
そう徳川慶喜の思惑通り、朝廷は、政治は慶喜が将軍として担当せよ、特に外交については全面的に任せると言います。
やはり慶喜、ズル賢いやつですね。
この慶喜を見てて、「こんなやつ、まともに相手してたらこっちが変になる。こんなのは戦をして成敗し、殺してしまわないといかん」と、ふつふつと怒りを燃やした人がいました。
薩摩の西郷どんです。