室町幕府は、なんで変なのか
以前も書きましたが、室町幕府を作った足利尊氏が変な人だったというのが1番の理由です。
とにかく、源氏という血筋で、遠くても近くても親戚が集まって、鎌倉幕府を倒して新しい世界を作ったのです。
いろんな源氏どもを一つにまとめるというのは、ただ優秀とか強いとか、そういうことだけでは無理だったのですね。
この足利尊氏という特殊なキャラクターというかカリスマだからこその偉業だったのです。普通の人じゃ無いの。すごく変。
精神に問題をかかえていたみたいな。
とにかく活躍した武将に褒美をやりまくる。
自分の欲というものが無い人なんです。
この初代の将軍が気前が良すぎて、幕府創生期に協力してくれた他の武士たちが広大な領地を持ち、将軍はそうでもないと言う状況で、「みんなで盛り立ててね」という態度の幕府ができてしまいました。
じゃあ大名は
室町時代の守護大名の領土の広さといえば、常識を外れています。
例えば、斯波氏。福井の他に名古屋も遠江も治めています。細川なんてのも丹波辺りから大阪、そして四国まで手広いです。
はい、皆さんお気づきの通り、有力な守護大名は、領地が大き過ぎて、自分の領地を直接治めるなんてことは不可能です。
それに、細川、畠山、斯波あたりになると、管領とか幕府の要職もこなす立場ですから、余計のこと自分の領地の経営なんて、やってられません。
と言う事で、守護大名の下に守護代など、実質的に経営可能な範囲の領地を管理する者が置かれることになります。
例えば、さっきあげた斯波氏の越前は朝倉が、そして名古屋は織田が管理を任せられます。こういう連中は、自分の受け持ち地域については徴税や軍備なども自分で行いますので、「代官」というよりも、その地域の実質的な支配者みたいになり、そういう立場で、守護大名に接します。
幕府の縮小版が守護大名の家で成立しているって感じでしょうか。
主人と家来のイメージは江戸時代に作り上げられたものが、ぼくらの頭に入っている
親分に忠義を尽くすなんて概念は、江戸時代に染み込まされたもので、室町時代は、そういう「ご主人様!」みたいな感覚は無かったんじゃないでしょか。
守護大名の家来の力、発言力が強くなっていくのは当たり前ですね。
ま、とにかく守護大名も、守護代などの家来筋を頭から押さえつけるなんてことは、当たり前に出来ることでは無かったように思います。
下克上てのは、すごく特別な状況のような気がしますが、みんなで相談しながら、不満の無いようにやっていく、親分子分の関係は相互に利益があるから存在する、よく考えれば、当たり前の状態ですね。
跡継ぎを誰にするのかも、関係者の都合優先みたいな
将軍にしても大名にしても、亡くなった時に誰を跡継ぎにするのかは、家来衆とか関係者の都合が優先です。
跡継ぎ候補者も、自分を担いでくれる家来の軍事力、経済力、政治力を当てにするしかありません。
こういう要素が室町幕府がややこしい理由です
応仁の乱てのが有名ですが、とにかく室町時代はややこしく、忙しなく、挙句に終わりの方は戦国時代なんて言われてしまうのは、上記の不安定要素のせいです。
しかし、非常に理解しづらいのは、それでも将軍の権威と言うものがちゃんと存在したみたいなのです。例え、最後の15代義昭においても。
そこら辺が難しい。
色々読んでみると、織田信長も、ものすごく解りづらいです。
「室町幕府将軍列伝」を基本に取りまとめてみようかと目論んでいます
ということで、図書館から借りてきた「室町幕府将軍列伝」を基本的に第10代将軍のところから最後まで読み終わりまして、すでに返却してきました。
これまとめてみようかと目論んでいますが、そうなると将軍だけでなくて、主要な守護大名の家の中の話も入れないと話がわからなくなるし、同じ苗字のいろんな人が争ったりするので無理かもしれませんけど。
12代辺りから後をトライしてみます。つもりです。