室町幕府の将軍は、現在「麒麟がくる」で滝藤賢一が演じている第15代足利義昭が最後になります。
そう15人の将軍がいます。
ここでは、扱いの軽重はだいぶあるのですが、第10代から後をまとめるというと大袈裟なので、ネタにして何か書いて行きます。
なんで終わりの方だけ?って、まあちょっと「麒麟がくる」を意識しているのかな。
それに、この時代、将軍家だけじゃなくて各大名の家もぐじゃぐじゃなので、頭から室町幕府を触っていくのはものすごく大変なので、できるところから手を付けようということです。
正直、室町幕府というと鎌倉公方とかも触ってみたいし、応仁の乱あたりも触りたいしで、色々企画があるのですが、それはまた別の話とします。
日野家と足利家の関係
日野家てのはお公家さんです。
藤原家なのですが、現在京都の伏見区になる宇治郡の日野というところに薬師如来を祀り、お堂も建てて、ここを「日野薬師」と名乗ったりしたものですから、ここを氏寺とする一族の家名が「日野」となったのです。
けっこう格が上のお公家さんです。
さて、室町幕府を作った、初代将軍は足利尊氏ですけども、この人、最終的には後醍醐天皇と対立してました。
この状況下で、足利尊氏は、朝廷との間を取り持ってくれる公家が必要だったのです。
で、日野家が尊氏のために、だいぶ力を貸しました。
ということで足利将軍家と日野家との間の関係が強くなりました。
で、すごいのは3代将軍の金閣寺を建てた足利義満から後の将軍の嫁さんは、この日野家からガンガン供給されたのです。
この嫁さんたちの中で一番有名なのは、8代将軍 足利義政の妻、日野富子です。
ぐっちりと幕府の中で権力を握り、応仁の乱にも絡んでいます。
さて、この8代将軍義政と日野富子との間には、義尚という息子がおり、これが第9代の将軍となりました。
しかし、この足利義尚には世継ぎができませんでした。男の子がいなかったのです。
この難しい状況を踏まえて、第10代の将軍から話を始めます。
第10代 足利義稙(よしたね)と、第11代 足利義澄
足利義稙の父親は、足利義視(将軍ではありません)で、母親は日野富子の妹。
9代将軍義尚には男の子がいなかったので、10代将軍は親戚の子を連れてくるしかありません。
ちなみに、9代将軍の義尚のお父さんは、8代将軍の義政、義政のお父さんは6代将軍の義教です。
あれ、7代は?と言えば、それは義政のお兄さんの義勝です。
義勝、義政兄弟のお母さんは日野家の娘です。
で、6代将軍の義教は、別の女性との間に男の子を作ってます。この子が足利義視。
わかりづらいですね。みんな「義」がついてるし。
ということで、系図を書いてみました。あまり見やすく無いかも知れませんが。許してください。
さて、10代将軍を見繕わなければなりませんが、一応候補としては、義視と日野良子との間の子義稙と、義視の弟の政知の子 義澄が候補になります。
で、幕府の実力者の日野富子としては、やはり自分の妹の子 義稙が良いのです。
富子の夫、8代将軍義政が我が子義尚の死後、しばらく将軍に復帰しましたが、義政が亡くなると、日野富子は義稙を将軍にします。
でも、陰謀渦巻く世界に生きて、なおかつ自分が最も腹黒い日野富子は、自分と血が繋がってはいる義稙を頭から信用できません。
で、もう1人の候補である義澄を自分の邸宅の一つに置いて、義稙を牽制しようとします。
これに腹を立てた義稙と日野富子との間にすきま風、関係悪化となるのです。
この頃の幕府のもう1人の実力者は、管領を務める細川政元です。
10代将軍の義稙は、諸大名などに対する求心力を得ようと思ったのか、ちょいと気に食わない近江の六角氏を成敗します。
実は、先代の将軍義尚は、この六角氏を成敗しようと出陣しましたが、陣の中で病死しています。跡を継いだ形の義稙としては、この征伐をコンプリートしたかったのでしょうか。
この六角征伐については、実力者の細川政元は反対でした。
しかし、一応の成果をあげた義稙は、やはり幕府の実力者である畠山政長の家の内輪揉めのために、政長の要請に応じて、政長と対立する畠山基家を成敗するために河内に向かったのです。
度重なる征伐に反対の細川政元は出兵を拒否、京都に残りました。今度は、征伐に加わらない大名も多かったようです。
明応の政変 1493年4月
で、それでもいいやと義稙が河内を攻めている間に、細川正元と日野富子が結託して、義稙の牽制用に日野富子が飼っていた足利義澄を11代将軍にしてしまったのです。
なんか「陰謀」とか「腹黒い」とか、そういう言葉がぴったりの、非常に室町幕府らしい事件ですね。
流れ公方
慌てて河内から京都へ戻ろうとした義稙ですが、細川政元+日野富子の力の方が勝っており、諸大名も様子を見て優勢な方に回りますから、義稙は負けちゃいました。
それでも、義稙は越中の神保氏のところへ逃げて「越中公方」と呼ばれます。
京都の義澄とは別に、義稙もまた将軍として各地へ指示を出し続けたのです。
2人の将軍状態。
義稙は、越中から、越前朝倉氏のもとへ、そして周防の大内氏のところへと移動していき、「流れ公方」と呼ばれました。
細川家の内紛と細川政元の暗殺 1507
さて、義稙を排除した実力者 管領の細川政元が、自分の家の内紛で暗殺されてしまう事件が起こりました。
これは、細川政元の2人の養子の対立が原因なのです。
この暗殺の犯人を、一族の細川高国が成敗して、阿波の細川家から政元の養子に入った細川澄元を一族の長に据えました。
しかし、阿波出身の細川澄元は、阿波細川家の家臣を重用するので、細川宗家の譜代家臣たちとの対立が起きました。
政元の暗殺犯を成敗して澄元を一族の長につけた細川高国は、この譜代家臣の中心人物です。
このため、高国と澄元の対立が生じたのです。
義稙の復権 1508
細川家の混乱に乗じて、足利義稙は京都を攻めました。
義稙の軍勢は勝ちました。
11代将軍 足利義澄は京都から逃げました。結局、近江で病死。
義稙は、再び将軍となりましたが、これは歴史としては10代将軍として扱われ、12代とは言わないのです。
将軍の家出。出奔と言いますが
室町幕府は、有力大名に支えられてますから、将軍といえども諸大名に言うことを聞かせるのは簡単ではなかったようです。
で、どうするかといえば、駄々をこねるのです。
みんなが言うことを聞かないのなら、家出しちゃうんです。
結構やってます、こういうの。
義稙も第2次政権の時に、何回も家出しました。
みんなも困って、一応将軍の言うことを聞いてあげるのですが、あんまり何回もやると「こいつ面倒くせえ、取っ替えてしまおうか」などと考えるのも出てきます。
だから、その時、将軍の代わりになる奴が、すぐにはいなさそうな状況で家出するのです。
1521年に義稙はまた家出しました。阿波の細川澄元のところへ行ったのです。
細川澄元って、さっき出てきましたね。細川高国と対立したですね。
この時に、幕府の実力者となっていた細川高国は、「ああ、馬鹿野郎。もう将軍取っ替えてやる」と、11代将軍の足利義澄の子の足利義晴を第12代の将軍としてしまったのです。
なお、義稙が行った先の阿波には、足利義澄のもう1人の子供である足利義維(よしつな)もおり、義稙は自分がやっつけた義澄の子供である足利義維(よしつな)と養子縁組をするのです。
と言うことで、12代将軍義晴から後の話は次回に