子供の頃のように

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室町幕府の最後の将軍 15代将軍足利義昭と織田信長 その3

元亀という年号は不吉

1570年から始まる元亀という年号は、3年間続きました。

この間、あんまり良いことが無いので、さっさと新しい年号に変えようという話が持ち上がります。

 

織田信長が、越前の朝倉義景を攻めに行って、妹の旦那の浅井長政に裏切られて逃げて帰って、くっそーと言いながら姉川の戦いをしたり、比叡山を焼き討ちにしたり、嫌なことばかり。

でもね、年号を変えるなんて天皇さんが新しいの作ってくれれば良いじゃない、というような気楽なものでは無いようです。

やっぱり発表とか周知とか、結構金がかかるようです。書きつける紙も上等でしょうし。

そういうのは、やはり将軍が用立てないといけないらしいです。

でも、足利義昭は、ちゃんとしていません。5箇条の意見書でも、お前はちゃんと朝廷の世話をしろよと信長は言っているのに。

 

その他、いろいろと足利義昭は、至らないというか、心を入れ替える必要があったようです。

で、織田信長は元亀3年の9月に17ヵ条の異見書てのを足利義昭に送るのです。

これ、ひどいんです。

 

  1. 兄君の義輝殿は朝廷をないがしろにしていたために、あんな最期だったやろ。だから義昭様はきちんと参内してくださいと言ったのに、朝廷に行ってもいないそうやね。
  2. 諸国の大名に馬をせびっていますね。これマズイから、欲しいのならこの信長に言いなさい。あげるから。
  3. よく頑張っている部下に褒美をやらず、気に入った者には良くしてるらしいですが、それはアカンやろ
  4. 将軍と信長の仲が悪いと世間は言っている。将軍の大事な宝物をよそに移しているらしいけど、どうするんや。住まいも移すのか。せっかく御所まで作ってやってるのに、何を考えてるんや
  5. 寺社から所領を取り上げて、他のものにやったりしているそうやけど、そういうことはしたらあかん
  6. 信長に友好的な者に対して、ひどい扱いしてるそうやけど、なんでや
  7. 真面目に務めている者に、給料安いらしいけど、それはひどい
  8. いろんな訴えにちゃんと対応していないけど、ちゃんとせいや

この他、朝廷が元号を変えようとしてるけど、そのための僅かな費用をちゃんと持っていって無いとか、諸国などから金銀を貢がせているとか、備蓄米を売って儲けているとか、寝所に呼び寄せた男色の相手が気に入ったら、良い役職につけてやったりしてるけど、その場で何か物を与えるだけにしておけよ等々17ヵ条の注意が書かれています。

遠慮なし。

 

読んでいると、こんなことしてるなら、忖度なしで、はっきり言ってやった方が良いように思いますね。

信長は、こういうことを将軍に注意しておいたぞと、いろんなところに内容を書き送ったらしいです。

いろんなところから将軍の悪口が信長のところに入ってきたんでしょう。仕方ないから、おれはちゃんと言っておいたよと示すために、コピーを方々に送ったんだろうと想像します。

苦労してるんです、信長も。

 

こういうのを見ると、信長は当初自分で天下を取るというよりも、将軍を盛り立ててちゃんとした政治をさせようと思ってたんじゃ無いかなって気がします。

 

しかし、足利義昭は器じゃ無かったんでしょうね。

ケツの穴が小さいの。反省せずに信長を憎むようになります。

せっせと諸国の大名に、信長を討つように手紙を書き送る日々なのでありました。

 

 

真打登場

将軍の手紙に武田信玄が答えてしまいました。

いくら信長でも、武田信玄はヤバいでしょ。真打登場。

足利義昭も喜んじゃった。

 

やはり強い武田信玄、そして朝倉・浅井連合軍、自分の兄を殺した三好三人衆と三好義継・松永久秀もいつの間にか自分の味方にして、足利義昭は信長包囲網を作り上げたのです。

しかしながら、満を辞して出てきた武田信玄は病気で勢いが止まってしまいました。朝倉義景は例によって思い切りが悪いし、冬の間は雪が降って動けない。

 

情報がタイムリーに入ってこないという状況は困ります。足利義昭は中途半端な状況把握のまま、年号も変わった天正元年(1573年)2月に反信長の兵を挙げてしまいます。

これに対して、信長は、武田信玄の病状、朝倉浅井の動きも、迅速正確に把握して、さっさと京都に入り、街に火をつけたりとかして、将軍の足利義昭を脅します。本当にやってしまう気は無いのですが、将軍を脅してバカなことを諦めさせるのです。

だいたい、足利義昭が対織田で挙兵しそうな状況を察した朝廷は、事前に「アホなことはやめろ」と将軍に言ってきたそうです。なんで今、信長と戦争するんや、都の平穏を守るのがお前の仕事やろ。

 

そうこうしているうちに、武田信玄は病死してしまいます。

 

将軍追放

どうも、足利義昭武田信玄の死を把握していなかったのでは無いかと書いている本がありました。

バカなのかと問いたいのですが、足利義昭武田信玄の死の2ヶ月ほど後に、再び挙兵します。

今度は、二条御所を出て、伏見の川の中洲にある槙島城に篭ります。

二条御所は、三淵藤英に守らせました。

 

信長が二条御所に兵を向けると、ここはさっさと降伏します。

三淵藤英は、信長の子分になります。弟の細川藤孝は、もっと前から信長の家来になっています。この二人、義昭が越前に行く前からずっと将軍を守ってきた人たちですね。こういう連中にも愛想を尽かされるような人物だったのでしょうね、義昭。

 

さて、川の流れの中に建つ城というのは、難攻不落なんだろうと足利義昭は思ったらしいですが、ここもさっさと落とされてしまいました。

 

織田信長は、将軍足利義昭を殺すことはしませんでした。

世間の目があります。怪我もさせないように気をつけたらしいです。

城から引き出した足利義昭を、将軍という地位はそのままに、京都から追放しました。

秀吉に命じて、大阪の方に送って行かせました。

この時点で、室町幕府は終了です。

 

 

その後の織田信長

上に書いたように、征夷大将軍足利義昭のままです。

織田信長は自らの立場というか肩書きのないまま、さっさと浅井・朝倉を滅亡させてしまいました。

信玄亡き後の武田も滅亡させます。

各地の一向一揆も殲滅します。

まさしく天下人に上り詰めていくのです。

 

この前も書きましたが、信長は朝廷の方から、太政大臣・関白・征夷大将軍のどれでも好きな称号を与えると言われます。

征夷大将軍は、その時点で足利義昭なのですが、そんなの剥奪しても良いよという朝廷の考えですね。

信長は、返事をせずに使者を返します。

 

義昭を立てて上洛したときも、義昭から、副将軍・管領等の称号をあげますよと言われて断っていますね。

信長は、こんな奴と一緒に幕府に入ったらダメだなと思って、外から支える方に回ったんでしょう。

 

朝廷としては、どんな官位でも、受けてくれれば天皇の臣下ということになるので、なんとか受けてもらいたかったのでしょう。

ということは、信長が天皇を超える存在になるのではないかという不安があったのでしょうね。

 

信長がどう考えていたのか、その天皇の使いが来た翌月、天正10年(1582年)の6月に、本能寺で信長は明智光秀に打たれてしまいました。

 

ああ、今回も長くなっちゃった。

その4もあるかなぁ?今は内容が頭の中にあるんですけど、忘れるかも。