子供の頃のように

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滅びにいたるまでの江戸幕府 明治維新1

この前、ちょっと紹介したのですが、「異説で読み解く明治維新」という本を読みました。

イースト・プレスという会社から出ている本で、書いたのは河合敦さんです。

この本は面白かったのですが、基本的に幕末物は日本人は好きで、ぼくもそれまでに他の本もいくつか読んでいます。

さらに、今よく聴いている歴史Podcastのコテンラジオと、いつもお馴染みのWikipediaをネタ元にして、江戸時代末期を整理してみようかなと思っています。

 

なお、最初の方に一般知識的なことを書きます。「そんなの知ってるよ」とおっしゃる方が多いのはわかってます。そういう方は、その部分を読み飛ばしてください。

やはり明治維新に至る流れをざっと書かないとだめだろうという考えなのです。

 

 

最後の将軍 徳川慶喜に至るまで

ラスト将軍、徳川慶喜、有名ですね。

この人優秀だったのでしょうか、いろんな人が将軍になって欲しいと言いましたが、なかなかならないの。

なんか徳川家康公の再来と言われてたみたいです。

しかし、将軍にならない。

 

水戸の徳川斉昭の息子です。

で、御三卿の一つ、一橋家を継ぐために養子に行きます。

 

さて、水戸徳川からは将軍を出さないことになっていたと言う人がいます。

また、水戸から将軍を出さないという決まりは無かく、ただ実際に将軍が出て無かっただけだと言う人もいます。

どちらか分かりませんが、水戸から将軍が出たことは無く、一橋家からは将軍を出せるのは事実です。

 

御三卿というのは、以前も書きましたが、万が一将軍家や御三家などに後継がいなかった場合、ここから養子を出せるという便利な仕組みです。

元々は、暴れん坊将軍吉宗が、自分の後継では無い二人の息子たちにそういう便利な家を作らせました。で、後でもう一つ加わって、御三卿という家ができたのです。

 

田安、一橋、清水の三家です。

養子先は、将軍家、御三家に限らず、必要であれば他所の家にも出せます。

福井の幕末の有名殿様の松平春嶽公は、田安家から福井に養子に来ました。

 

 

慶喜は15代将軍になったのです。

その前の14代将軍を決めるときも「あんたがやってよ」という人が何人かいたようですが、上手に断って、13歳の家茂が将軍になりました。ま、井伊直弼の支持もありましたしね。

ただ、慶喜は将軍家茂の後見職にならされました。

 

家茂が14代将軍になったのは1858年。同じ年に井伊直弼大老になってます。

ペリーが黒船でやってきたのは1853年です。将軍は第13代家定でした。この時の老中首座は阿部正弘でした。

家茂が将軍になった時は、幕府はてんやわんや状態だったのです。

 

開国か攘夷かで日本中が割れてました。

剛腕の大老井伊直弼は、開国に舵を切りました。安政の大獄をやったせいですっかり悪役イメージの井伊直弼ですが、今から見ると開国は妥当というか一択です。でも、1860年桜田門外ノ変がおこり、井伊直弼は暗殺されます。

 

 

尊皇攘夷と京都の政治的な雲行きと、京都の慶喜

尊皇攘夷」というのは「尊皇」という思想と「攘夷」という、基本的に関係ない言葉をくっつけたものです。

尊皇は、天皇陛下を敬うという考え方です。

攘夷は、日本にやってくる外国人をやっつけてしまうという考え方です。

この二つをくっつけたのは誰かという話もありますが、ここではパスします。

 

この尊皇攘夷が、倒幕思想に繋がって行ったりします。

尊皇攘夷」と言って、頭に浮かんでくる藩は、山口県長州藩

当時、長州藩の連中は、京都で攘夷派で倒幕思想の公家たちと連携し、朝廷が倒幕派になるように働きかけていました。

基本的に、当時の天皇孝明天皇は攘夷思想です。

で、あんまり長州藩の連中が好き勝手をしてますので、これが面白くない薩摩藩らは、長州勢を京都から武力で追い出します。

 

長州は、なんとかして京都に戻ろうと動きますので、もう一回きちんと叩いておく必要があり、1865年に将軍家茂は、第2次長州征伐の指揮を取るために大阪城に入りました。

 

 

この頃、一橋慶喜(後の15代将軍。この時はまだ一橋家の主でした)は、京都におりました。

慶喜、将軍の後見職のくせに、京都で朝廷に入り浸り。

孝明天皇は、すっかり慶喜がお気に入りで信用してらっしゃいます。

慶喜は朝廷での役目も頂いちゃって、徳川一族のくせに朝廷の重臣的な立場だったのです。

京都守護職松平容保会津藩主)と、京都所司代松平定敬桑名藩主)と三人で京都でつるんでいたので、一橋の「一」と会津の「会」と桑名の「桑」の三文字をくっつけて「一会桑政権」なんて呼ぶ人もいて、江戸の幕府とは異なる政治行動を取ったりしてました。

いい気になってたのです。

 

さすがに幕府も頭にきて、慶喜に江戸に戻れという命令を、将軍家茂名で出します。

しかし、慶喜は、これを拒否ります。

なんせ天皇のお気に入りです。朝廷の方から幕府に対して「慶喜は将軍に代わって朝廷を守護しているのだから、この江戸への召還は認められない」なんて言ってもらいます。

これが1865年の2月頃。

将軍家茂が大阪城に乗り込んできたのは同年の5月です。

 

実は、家茂は困った問題を抱えてました。

英仏蘭米の4カ国が、兵庫開港をしてくれと言ってきてたのです。

これは、もう以前に諸外国に対して「後でね」と約束していたことなのです。ただ朝廷の勅許をもらって無いのです。

孝明天皇は、関西の港は京都に近いので、外国に対して開港したくありません。

仕方ないので、幕府としては勅許を頂かずに、独断でOKしてしまうのです。

 

こういう大阪城へ京都から慶喜がきて、話を聞いて「それはマズイよ」と言います。

当たり前ですよね。

慶喜は将軍家茂に「とりあえず、各国には10日待ってもらい、お前が朝廷に行って天皇に説明して勅許もらえよ」と言います。

まあ、それだけではあんまりなので「俺が朝廷で予備交渉しといてやるからさ」と言って、慶喜は京都に戻ります。

 

しかし、家茂はなかなか京都に行きません。

慶喜は頭にきて、朝廷から、その時に家茂についてきた老中二人を罷免せよという朝旨を出させます。

朝廷が幕府の人事に口を出すなんて前代未聞のことです。

 

これで家茂の心は傷つき、「ぼくは将軍やめます。後の将軍は慶喜おじさんがやってよ」という将軍辞職願いを朝廷に出し、泣きながら大阪を後にして江戸に戻ろうとします。

慶喜は「こりゃマズイ」と、家茂を追いかけ伏見で捕まえて、「勅許は俺が取ってやるから機嫌なおせよ」となだめます。

 

はっきり言って、慶喜は善人では無いと思います。

結局、慶喜は兵庫開港の勅許は取れませんでしたが、1858年に井伊直弼が勝手に結んでしまった日米修好通商条約についての勅許は取れました。

慶喜すげえじゃんと言われましたね。

 

 

慶喜が15代将軍になる日

慶喜には好きなようにたぶらかされるし、第2次長州征伐は思うように勝てないしで、大阪城に戻っていた家茂はストレスが大きかったのです。

で、可哀想な家茂は、1866年の7月に、大阪城で21歳の生涯を閉じました。病死。

 

当然、次の将軍は慶喜になってくれと皆が言いました。

しかし、慶喜は断ります。

ひどい男です。

 

福井の松平春嶽公は、心配する人たちに、「宴会の時に酒を勧められて、断って断ってもなお酒を勧められ、最後に仕方ないなという顔をして酒を注がれて旨そうに飲み干す奴がいるでしょう。慶喜公も、それと同じで、何回も断ってどうしてもとみんなが頼み込んでくるギリギリになるまで待って、ようやく将軍を受けるつもりでいるんですよ」と笑って言ったらしいです。

慶喜、嫌なやつでしょ。

 

で、どうしたかと言えば、慶喜は、まず将軍家である徳川の家を継ぎます。

でもまだ、将軍になるとは言わないの。

慶喜の信用する腹心の家来である原市之進が、公家や諸大名に根回しをして、みんなから慶喜を将軍にして欲しいですという嘆願書を朝廷に出させました。

 

その年の末、孝明天皇から「たとえどんなに固辞しても、どうでも慶喜は将軍の宣下を受けよ」というお言葉が出ます。

ということで、ついに慶喜は15代将軍となったのです。

ああ、面倒臭い。

 

しかし、それから20日後、徳川慶喜の最大の支援者であった孝明天皇は後崩御されます。

亡くなった時の様子から、もしかすると倒幕派の公家、岩倉具視とかあたりが企んだ毒殺ではないかとという説もあるようです。よくわかりませんが。

 

さあ、将軍になったばかりの慶喜に試練ですね。今まで調子良かったのに。

さらに、慶喜が最も信頼し、大事な相談相手だった腹心の家臣、原市之進が、急進派に暗殺されてしまいます。

いきなり困った徳川慶喜

 

 

ちなみに原市之進を暗殺したのは、慶喜の実家の水戸藩士。

そう、井伊直弼桜田門外でぶっ殺したのも水戸藩士。

水戸は、徳川御三家の一つでしたが、危険で過激なテロリストがいたのです。

なんでかは、後でね。