70代の真実

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滅びにいたるまでの江戸幕府 明治維新4

将軍の敵前逃亡

1868年1月の鳥羽・伏見の戦い幕府軍のぼろ負け。

大阪城にいる慶喜はすっかり嫌になってしまいました。だって倒幕の詔が出て、薩長に錦の御旗が立ったのです。

慶喜は朝敵となってしまいました。

 

でも、主戦派の幕臣たちは戦いを続けるつもりでいます。

慶喜は、松平容保会津藩主)松平定敬桑名藩主)らを呼び、「もう江戸へ帰ろうかな」なんて相談します。両松平は、それに対して「それは良い考えです。一旦江戸に引き上げて、体勢を整えることが良いです」と返事。

で、よしそうしようと慶喜の心は決まりました。

 

さてそこに、主戦派の連中がやってきて、「このまま負けっぱなしというわけにはいきません。我々はこれから出陣したく、殿にもご出馬をいただきたく存じます」なんて言うんです。

慶喜は、ここで出陣は無駄だと思うのですが、主戦派の連中はどうでも戦うつもりになってしまっています。

そいつらを追い払おうにも、出馬するという返事をもらうまでは動きそうにもありません。面倒なので「そうか、俺も出陣するよ」と返事するのです。

皆喜んで、準備のために持ち場に向かいます。

この隙に、慶喜松平容保松平定敬とその他数名を連れて大阪城を抜け出ます。

無茶苦茶です。ひどいです。出鱈目です。

 

天保山の港から開陽丸に乗って江戸へ向かうつもりです。

艦長の榎本武揚は出かけていたのですが、副艦長に命じて出航してしまいます。艦長置き去り。

 

江戸の浜御殿(浜離宮)に幕府の海軍所がありました。

船は、そこに着岸しました。

 

軍艦奉行勝海舟は、至急海軍所の船着場に来いと連絡が入り、慌てて駆けつけます。

そこでは、大阪から逃げてきた慶喜が、陸に上がって、幕臣たちと焚き火に当たっていました。

勝海舟は、前から薩長と戦うことに反対をしてたので、将軍のそんな姿に腹が立ちました。

海舟は、将軍に気づかないふりをして、挨拶もせずに、全体に向かって「だから言ったじゃないか。これからどうするつもりだ」と怒鳴りました。

誰ひとりとして海舟に反論しようともせず、うつむきました。

海舟は「それほど弱っているのか」と情けなくなり、涙がこぼれそうになったのです。

 

慶喜は、朝廷に対する恭順を説く勝海舟に、新政府との交渉を一任しました。

徹底的な主戦を唱える者たちが激昂し、過激な動きをしそうなので、これを危険視した慶喜は、最強の主戦派である小栗上野介を罷免します。

勝海舟は、どんどん位が上がり、主戦派の多くが解任されたり辞任したりする中で、今まで外されていた恭順派が幕閣に戻ったり登用されたりして行きました。

慶喜は朝廷に手紙を出し、ひたすら謹慎しますと恭順の意を示します。

 

 

朝敵征伐軍と江戸城無血開城

しかし、新政府は朝敵慶喜を征伐するために、有栖川宮親王東征大総督に、約5万の大軍を進発させました。

この東征軍の参謀は、西郷隆盛西郷どんが実質的な最高司令官なのです。

 

勝海舟は、西郷隆盛が実質的に東征軍を率いていることを知ったときに喜んだようです。

すぐに西郷隆盛に手紙を書きました。

徳川慶喜はひたすら恭順している。箱根の山は越えないで欲しいと頼む手紙なのですが、よく読むと、こっちには軍艦もあるし主戦派は意気盛んで抑えきれるか自信が無いなどと上手な脅しなのです。

で、西郷どん怒ります。「海舟と慶喜の首を引っこ抜いてやる」と叫んだそうです。ま、もともと慶喜には死をもって償わさせるつもりだったんですから。

3月15日に江戸の総攻撃をすると決定してしまいました。

 

海舟は再び手紙を西郷隆盛に書きます。寛大な処置を求める手紙を山岡鉄舟に持たせて、西郷のもとへ行かせました。

3月9日に駿府山岡鉄舟西郷隆盛と対面します。勝海舟の手紙を渡して、西郷と交渉をしたのです。

西郷隆盛は、軍艦や武器の全てを新政府軍に引き渡し、江戸城を明け渡すこと、そして慶喜備前藩にお預けなど、7カ条の条件を出しました。

 

そして新政府軍が江戸に着いたときに、勝海舟西郷隆盛との会談を申し出ます。

3月13日、14日の二日間、この二人は話し合いをしました。そう、江戸総攻撃の直前です。

 

この話し合いの様子は、勝海舟の回想録にこう書かれています。

いよいよ会談が始まると、西郷は俺の言うことをいちいち信用してくれて、その間一点の疑念もはさまなかった。

「いろいろむつかしい議論もありますでしょうが、私が一身にかけてお引き受けします」

西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

その結果、西郷が山岡鉄舟に伝えた7ヵ条の条件の大半をひっくり返してしまったのです。

 

なお、勝海舟は事前にアーネスト・サトウを通じてイギリス公使ハリー・パークスに、何か手を回したという話もあるようです。

 

新政府軍は、上記の会談の最初の日、13日に、江戸総攻撃にあたりパークスのところに人を派遣し、話をしました。

パークスは謹慎中の慶喜を殺したり、諸外国に通告なしに江戸を総攻撃するなどもってのほか、万国公法にも反するので断固反対だと言います。

これが西郷隆盛の考えに影響したのは間違いないでしょう。

 

 

江戸城無血開城がなり、徳川は400万石から70万石に減らされ、慶喜駿府に移封となりました。

 

勝海舟慶喜について駿府に移りましたが、明治5年に新政府に請われて出仕することとなり、重要な役を次々とこなし、最終的には伯爵となり、明治32年1月に77歳で亡くなりました。

幕臣でありながら新政府の重要な役割を担い出世した彼について、批判もあるでしょうけれど、「俺は俺の好きなようにやってるんだから、他人がどう言おうと俺は知らねえし気にしないよ」ってのが本人の言葉です。もっと難しい言葉で言ったんですけどね。

 

 

ということで、とりあえずザクッと明治維新の流れを簡単に説明しました。

次回からは、以上を前提にした話となります。

タイトルも、「明治維新」というのだけ継続して番号をつけて、最初の部分は少し変えるかな。