室町幕府の将軍て何なんだ?
ずっと、室町幕府の終わりの頃の将軍の話として10代目から最後の15代までを取り扱ってきました。
みなさん、この将軍たち、どう思われますか?
全然、あかんですよね。
じゃあ、室町幕府の将軍て意味の無い存在だったのでしょうか?
それとも、やはり将軍は将軍としても存在意味があったのでしょうか?
一体、あいつら何なんだ!!(エコーが残っていく感じで、ひとつ)
天下布武
これ、織田信長のハンコです。印鑑に彫られた言葉です。
自らの武力を以て天下を取るって感じがしますけども、どうも違うみたいです。
この前読んだ本に書いてあったのです。それを確認して、ここに書こうと思っていたのですが、あいにくと図書館の返却期限の日付の確認をうっかりしてしまい、返却期限の延長が出来ずに、もう返してしまったのです、その本。
ということで、ウィキペディアを調べたら書いてあるだろうと見てきました。
近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている。
そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
なんせね、
武とは軍事力ではなく、中国の史書からの引用で七徳の武という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている
んだそうですから。
要するに、信長は美濃を手に入れてから、この「天下布武」ってキャッチフレーズ使いましたけども、それは「俺が天下を取るぜ」ということでは無く、「ウロウロしている足利義昭を連れて京に入り、そいつを一丁前の将軍にして、天下を安らかにするんだぜ」ということだという事です。
上洛した信長は何を考えてるんだあ!!??
さて、キャッチフレーズ通り、信長は足利義昭を連れて、こちょこちょと敵を追払い、見事に上洛しました。
そして、足利義昭は15代将軍になります。
で、信長は岐阜に帰っちゃう。
何で?
当時、天下とは京都を中心とした畿内です。
天下人たる将軍のいる場所です。
天下を取るなら、信長は京に留まらなくっちゃ。
でも、義昭頑張れよと、さっさと岐阜に帰っちゃう。
何考えてるの?
あんまり京都にこだわって無いのは事実でしょ。
天下は義昭がちゃんとしてよねという事でしょうか。
足利義昭は、織田信長に対して「御父」とまで手紙で呼びかけている状態です。
もう天下は信長の思うがままでしょ。多少、不都合があったけど、それは取り除いていけばいいのだから。
天下取りということに、あまり興味が無かったのか?
今までの実力者は、京都も将軍も押さえて、天下を自分の思うようにしてきました。
10代目から後の将軍のことを書いてきましたけど、そうでしょ。
このあたりの信長の立ち位置が、どうも不思議なんです。
そういうつもりが無かったような気がしてしまいますでしょ。
将軍の保護者でいようとしたのでしょうか。
そうは言っても、命令される方にも都合があるよ
さて、信長が岐阜に帰ったせいで、三好三人衆が将軍義昭の居場所とした本圀寺を攻めました。
この時、明智光秀が将軍を守って活躍したそうです。何とか敵を押し返しましたが、やはり、ちゃんと将軍の居場所が必要だということで、信長は二条御所を建築し、将軍はここに落ち着きます。
とにかく面倒は見ますよという信長の態度です。
世の中の人たち、この様子を見ています。
やっぱり信長だ、とみなさん思うのは当然です。
で、天下のことは将軍が行うと言っても、みなさん、「で、信長さんはどう考えているの」あるいは「信長さん、このこと知ってるの?」と、やはりそっちを気にしますよね。
将軍の命令書をもらっても、信長の顔色が気になる。
ということで、「将軍の命令書に信長のハンコとか書類もつけてくれないと、困るよね」となるのは当然でしょ。
信長も添え書なんかを書きました。
この辺り、信長が権力を握ろうとしたと考えてもいいですけども、命令される方の都合というか思惑と要求もあったと思います。
五箇条の条文は、当たり前のことを書いただけ
ところで、二条御所が完成して、そこに居を移した足利義昭、ものすごく感謝したでしょうね。(1569年4月)
でも、その年の10月に、織田信長は、さっさと岐阜に帰ってしまいます。ちょっと義昭と衝突があったみたい。
どうもね、義昭、ちょっと性格がダメみたいなんです。
信長は伊勢大和城に籠る北畠氏をやっつけに行ったのです。一応、開城させて信長の勝ちみたいになってはいるのですが、だいぶ苦戦したのです。と言うか、実質信長の負けっぽい。
仕方ないので将軍の義昭の仲介で和睦して、しかも将軍の威光で、実質的に負けた信長に有利な条件での和睦となったのです。
で、義昭、調子に乗ります。「俺って、やるじゃん。将軍だもん」ついでに信長に貸しを作ったくらいの気分になったのでしょうか。
で、信長がへそ曲げて帰っちゃった・・・んじゃないかと言う歴史研究家もいるんです。
「馬鹿野郎、誰のおかげで今の地位についたと思ってんだ」なんてね。
で、年があけての正月に、信長は五箇条の条文を、足利義昭に突き付けます。
- 大名たちに御内書(将軍の書状)で命令することがあるなら、まず信長にその旨を言う事。信長からも書状を添える
- これまでの御下知は全て無効とし、改めて考え直してから決めること
- 将軍に忠誠を尽くす者に恩賞、褒美を与えたくても土地が無い場合は、命令してくれれば信長の分国の中から提供する
- 天下のことはともかく信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思を伺う必要はない。信長の意思通りに行う
- 天下は鎮まったのだから、朝廷のことを油断なく行うこと
読んでみると、割合当たり前のことが書いてあるでしょ。
前に書いたような事情で、大名たちへの命令書には、信長の書状も添えたりしてましたし。
一応、「調子に乗るなよバカ」と言う将軍義昭に対する牽制みたいなものです。
5条目なんか、仕事ちゃんとやれよってことですもんね。
この条文だけで、将軍の傀儡化というか、信長の野心とか、そういうものでも無さそうなんです。
他の人たちの評価てのもありますよ
この五箇条の条文を出した2ヶ月ほど後、1570年(元亀元年)3月、信長は京に行きます。
こん時の朝廷の扱いがすごかったらしい。公家の偉いどころや武士のいいとこあたりが京の入り口まで出迎えに行ったり、とにかく特別扱い。
本には、将軍並みの扱いを朝廷がしたと書かれていました。
天皇さんも、あ、正親町天皇、玉三郎ですね、なかなかですから、色々考えてはります。
ま、世間の見る目って、そう言う風だったんです。
そのあたり考えると、義昭ダメでしょ。ちょっとバカかも。
と言うことで、この続きは、また。
その3の心なのだ。