ということで、有名な家臣を3人紹介します。
この人たち、面白いです。
どうしても書きたいので、付き合ってください。
幕末の春嶽を支えた家臣たち
橋本左内
早く死にました。26歳。安政の大獄の時に獄死しましたから。
お父さんは藩医、医者です。
16歳の時に「啓発録」ってのを書きました。
子供の心を捨てて、勉学に励めという内容のようです。
これ書いたので、ぼくら福井の子達は学校で橋本左内の名前を聞かされてます。
そのせいで、どういう人だったのか、全く知ろうとしませんでした、これはぼくだけです。
佐内公園にて橋本左内像
「啓発録」を書いた翌年、大阪の適塾で学んじゃいます。
緒方洪庵について勉強しました。
そのうち父親が病に倒れたので、福井に戻って代診なんかして、医者の仕事します。
父親が亡くなり、代わって藩医になりました。
安政元年(1854)江戸に出ます。
でも、本人は医学から離れたいという希望があり、中根雪江や鈴木主税などのとりなしで、春嶽の側近となります。
1857年に一旦福井に戻り、藩校の明道館の学監となりますが、すぐに江戸に戻り春嶽の手足となり政治に関わります。
春嶽、その他の活動が邪魔な井伊直弼は、言いがかりをつけて春嶽を隠居に追い込み、そして橋本左内を捉え、獄死させました。
26歳(これ数え年のはずです)で死ぬのは早かったですね。
西郷隆盛との交流がありました。
西郷隆盛は西南戦争で亡くなるのですが、彼が死ぬまで、最後まで大事に持っていたカバンの中には、橋本左内からの手紙が入っていたそうです。
横井小楠
文化6年8/13(1809)〜明治2年1/5(1869)
熊本から招かれた学者で実務家。春嶽の政治顧問。
新しい国家と社会の構想を模索し、統一国家と大統領制を考えていました。
- 身分階層を超えた討議をして政治運営する
- 外国との通商貿易をする
- 産業振興
- 国内における自律的な経済発展の方策を
今っぽいでしょう。
というか、どこかで聞いたことあるでしょう。その人の思想にも小楠は影響を与えてました。
この人、熊本で生まれ、熊本藩士。
どうも酒を飲むと陽気になってしまうのか、酔うと大声で屈託無く話をするとか資料には書いてありまして、酒の上のトラブルもありました。
熊本藩の藩校の塾長したり、江戸に勉強にいったりしてましたが、酒でいろいろあって自宅謹慎。
筆頭家老にも覚えが悪くなります。
で、自宅に引きこもってたのですが、みんなが勉強に来て、私塾みたいになっちゃった。
坂本龍馬やらも訪問したらしいです。
そこへ福井の藩士が訪れて、「これはすごい人だ」と福井に知らせます。
福井藩から「ご意見聞かせてね」と求められ自説をしたためて福井に送ったりしたら、すごい人だから福井に来てよということになりました。
そういう関係が効いたのか、当初謹慎中の小楠をよそに行かせるのはマズイと渋っていた熊本藩ですが、結局福井に行くことを承知しました。
横井小楠は、身内の不幸などで熊本に帰らなければならないようになるのですが、何回も福井と熊本を往復します。
福井では、藩校の明道館で講義をし、後で出てくる三岡八郎(由利公正)も講義聴いてます。
小楠が熊本に戻っていた時に、狩りに出て、藩主専用の場所で鉄砲を撃ってしまい、また謹慎をくらってます。
そのあたりガードが緩いです。
しかし、幕府の政事総裁職となった春嶽が、小楠を江戸に呼びます。
助言者として、幕政改革に意見を述べています。
ただ、文久2年暮れに、熊本藩江戸留守居役の別邸で熊本の人たちと酒を飲んでいたところを刺客に襲われます。
刺客も熊本の人たちです。
けっこう思った通りのことを口にする性格なので、まあ、恨みも買ったんでしょう。
刀を外して飲んでいたので、急な襲撃に刀を手にすることが出来ず、取り敢えずその場を脱出。
福井藩邸まで戻り、予備の刀を持って引き返しました。
しかし、すでに刺客は去っており、一緒に飲んでいた人は切られていました。
熊本では、この小楠の行動が問題になります。
士道忘却。自分だけ逃げやがって。
切腹しろという話まで出ましたが、福井藩が何とかかばいます。しかし、熊本藩士では無くなってしまいました。
明治維新を迎え、新政府の参与となったりしますが、明治2年にまた刺客(熊本の人たち)に襲われ暗殺されました。
他人をあまり気にせずに、好きなように生きた人ですね。
春嶽と巡り合い、自分の才能を思い切り発揮できたので、破滅型の人格ですが、幸せだったんじゃないでしょうか。
三岡八郎あるいは由利公正
昔の人は、名前をたくさん持ってたりしますが、苗字ごと違う名前を持っていた人もいます。
ここで取り上げる由利公正も、その名前の前は三岡八郎と言います。
とりあえず、ここでは由利公正と呼びます。
文政12年11/11(1829)〜明治42年4/28(1909)
横井小楠の殖産興業策に触発され、小楠から財政学を学びました。
坂本龍馬との付き合いがありました。
由利公正は、明治政府の財政面での役目を担いますが、いろいろあって明治2年に辞職してます(こういうの多いですね、福井の人間は)。
岩倉使節団に参加してアメリカ、ヨーロッパを視察し、帰ってから板垣退助、江藤新平らと民選議院建白書を提出し、やがて元老院や貴族院の議員となってます。
子爵なんです。だから貴族院もいけたのです。
なんか生命保険の会社も作り、社長になってますね。
歴史篇は終了
とりあえず、福井の歴史篇はこれで終了します。
でも、「福井県というところ」という企画は、まだ続けるつもりですので、よろしくお願いします。