70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

福井県というところ10 松平春嶽2

ところで春嶽って何?

福井藩16代藩主 松平春嶽ってどんな人なのか。ただ、幕末の主役だとか、四賢侯の一人だとか言われても、よくわかんないというあなた、わからないですよね。

 

で、ざくっと紹介します。

f:id:edwalk:20190624205728j:image

11歳で藩主となりましたが、子供の間は領地に来れません。17歳の時に初めて福井に来ました。

福井では藩校の明道館を作っています。

 

中央では、この人、水戸斉昭や島津斉彬あたりとつるんでました。

で、徳川慶喜を次の将軍にしようと、いろいろ企みます。

 

ペリーが来航した時(1853)に、春嶽は鎖国意見を述べています。

しかし、1856年には開国論に転じています。

このあたりは、側用人 中根雪江の影響が大きいです。

 

1858年に橋本左内を江戸に呼び、徳川慶喜を将軍にするため、画策します。

この時の大老井伊直弼

時代は安政

橋本左内は逮捕され、春嶽は隠居させられます。

安政の大獄です。

 

やがて桜田門外の変で、井伊直弼は斬り殺されます。

春嶽はある程度好きなように動けたみたいですが、1862年に政界復帰。

幕政に参加。

政事総裁職に任ぜられます。

 

天皇に会ったりしてます。

将軍に辞職しろよと言い、自分も政治総裁職を辞任します。

 

でも、朝廷から呼ばれて京に行き、朝議参預を仰せつかります。

その後、京都守護職となります。

朝議は、鎖国(横浜鎖港)を決めました。で、春嶽は朝議参預を辞めてしまいます。

 

この頃、幕府は長州征伐を行なっています。

再征伐の話も出てますが、春嶽は、再征伐反対を唱えています。

 

ようやく徳川慶喜が将軍、最後の将軍に就きます。

春嶽は四侯会議に加わります。

 

そして議定職に任じられた春嶽は、徳川慶喜に対して将軍辞職勅許の旨を伝えます。

王政復古です。

徳川慶喜大政奉還します。

 

しかし、鳥羽伏見の戦いが起こってしまい、春嶽は議定職を辞任します。

 

明治新政府は、春嶽を内国事務総督に任じます。

そして議定という職に任じられるのです。春嶽はこれを断りましたが、許されず、職につきました。

民部官知事となり、民部卿に就任します。大蔵卿も兼任しました。

しかし、やっぱりそれらも辞めてしまい、気ままに分筆生活に入ります。

 

 

ざくっとの紹介ですが、幕府、朝廷、明治新政府と、立場が対立するところから、どういうわけか大人気ですね。

で、どの役も、ちょっとやって気に入らなくなり辞めてしまうというパターンです。

まあ、安政の大獄がありましたが、生まれから良いとこばかりを歩んでおり、正直ドラマ性は薄いです。

 

しかし、徳川幕府から明治政府に至る激動の時代の重要な局面に、求められて顔を突っ込み、思ったことを主張し、妥協もせずにさっさと辞めて、それでも再び求められて活躍し、また自由になるという、なんとも時代に求められた人物です。

周りに、徳川慶喜勝海舟坂本龍馬西郷隆盛、大久保利次などの人物が絡んでくるのです。

 

何をしたのかといえば、明確に業績を挙げるのはなかなかなのですが、やはりこの人がいなかったら、ああいう歴史の展開にはならなかっただろうと思います。

 

ぼくとしては、この好きなようにやってる気ままな自由さが好きです。

 

 

活躍を支えた家臣たちは、この次に

前回、春嶽を育てた家臣たちを紹介しましたが、やはりこの人の周りに優秀な人材が寄ってきます。

そして、かれらの考えを取り入れて、春嶽は己の考えを時代に問うていくのです。

そういう家来たちのことは、また次回