ところで春嶽って何?
福井藩16代藩主 松平春嶽ってどんな人なのか。ただ、幕末の主役だとか、四賢侯の一人だとか言われても、よくわかんないというあなた、わからないですよね。
で、ざくっと紹介します。
11歳で藩主となりましたが、子供の間は領地に来れません。17歳の時に初めて福井に来ました。
福井では藩校の明道館を作っています。
中央では、この人、水戸斉昭や島津斉彬あたりとつるんでました。
で、徳川慶喜を次の将軍にしようと、いろいろ企みます。
ペリーが来航した時(1853)に、春嶽は鎖国意見を述べています。
しかし、1856年には開国論に転じています。
1858年に橋本左内を江戸に呼び、徳川慶喜を将軍にするため、画策します。
時代は安政。
橋本左内は逮捕され、春嶽は隠居させられます。
安政の大獄です。
春嶽はある程度好きなように動けたみたいですが、1862年に政界復帰。
幕政に参加。
政事総裁職に任ぜられます。
天皇に会ったりしてます。
将軍に辞職しろよと言い、自分も政治総裁職を辞任します。
でも、朝廷から呼ばれて京に行き、朝議参預を仰せつかります。
その後、京都守護職となります。
朝議は、鎖国(横浜鎖港)を決めました。で、春嶽は朝議参預を辞めてしまいます。
この頃、幕府は長州征伐を行なっています。
再征伐の話も出てますが、春嶽は、再征伐反対を唱えています。
ようやく徳川慶喜が将軍、最後の将軍に就きます。
春嶽は四侯会議に加わります。
そして議定職に任じられた春嶽は、徳川慶喜に対して将軍辞職勅許の旨を伝えます。
王政復古です。
しかし、鳥羽伏見の戦いが起こってしまい、春嶽は議定職を辞任します。
明治新政府は、春嶽を内国事務総督に任じます。
そして議定という職に任じられるのです。春嶽はこれを断りましたが、許されず、職につきました。
民部官知事となり、民部卿に就任します。大蔵卿も兼任しました。
しかし、やっぱりそれらも辞めてしまい、気ままに分筆生活に入ります。
ざくっとの紹介ですが、幕府、朝廷、明治新政府と、立場が対立するところから、どういうわけか大人気ですね。
で、どの役も、ちょっとやって気に入らなくなり辞めてしまうというパターンです。
まあ、安政の大獄がありましたが、生まれから良いとこばかりを歩んでおり、正直ドラマ性は薄いです。
しかし、徳川幕府から明治政府に至る激動の時代の重要な局面に、求められて顔を突っ込み、思ったことを主張し、妥協もせずにさっさと辞めて、それでも再び求められて活躍し、また自由になるという、なんとも時代に求められた人物です。
周りに、徳川慶喜、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利次などの人物が絡んでくるのです。
何をしたのかといえば、明確に業績を挙げるのはなかなかなのですが、やはりこの人がいなかったら、ああいう歴史の展開にはならなかっただろうと思います。
ぼくとしては、この好きなようにやってる気ままな自由さが好きです。
活躍を支えた家臣たちは、この次に
前回、春嶽を育てた家臣たちを紹介しましたが、やはりこの人の周りに優秀な人材が寄ってきます。
そして、かれらの考えを取り入れて、春嶽は己の考えを時代に問うていくのです。
そういう家来たちのことは、また次回