70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

福井県というところ8 大野の「わが殿」

天保13年(1842)4月27日、32歳になった大野藩土井利忠は家中一統を集め、自ら書いた文書を家老の中村重助に読み上げさせました。

 

幼いときに藩主を相続したけれど、

近年、贅沢が進み、政教は怠け緩み、士気はふるわず、藩の負債は日々累積し、上は公務を欠き、下は士民を養い難い情況を目の当たりにして、もう我慢できない。

オレはついに決心したぜ。

 

という事で、一連の改革に乗り出したのです。

 

これ、かなり強力過激な大改革で、まず家老以下、年寄・用人・奉行などの役職者の多くを更迭。

新たに人材を挙用。

後で出てくる内山兄弟なども、この過激な人事で表舞台に飛び出してくるのです。

 

 

大野藩って

はい、この地図を見てください

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福井県の一番右の先、大野市となっております。

もうちょっと右側は岐阜県、白鳥とか、その北は郡上。山です。

大野は山、大野の町は盆地です。

 

この大野は、もともと福井の初代藩主 結城(松平)秀康の領地、福井藩でしたが、秀康の3男が入り大野藩5万石となり、やはり秀康の5男、6男などが藩主となっていました。

まあ、それぞれ、松本藩、山形藩、そして最後は明石藩の藩主になって移動していきました。

 

で、1682年に幕府初期の大老土井利勝の四男・土井利房が藩主として入ってきました。

 

大野藩は、この大野の他に、飛び地ですが丹生郡にも4600石があり、これを「西方領」と呼んでいました。

上の地図では、嶺北の左側、海の方に「越前町」と書かれたところがありますが、その辺りです。

 

 

7代藩主 土井利忠

冒頭に出てきた利忠は、土井氏になってからの大野藩の7代目藩主。

彼が藩主になる直前に大野藩は大飢饉に見舞われて、藩の財政はボロボロになっていました。

 

8歳か9歳ごろ家督を継いで、藩主となりましたが、江戸時代は藩主と言えども幼いうちは領地に入れません。

江戸で育ち、19歳になって、ようやく大野の地を踏みました。

で、さっそく、倹約令を出し、そして大野の国産物を買って使えよとおふれを出しました。

国産奨励策。

まあ、若いときから名君だったという事なんでしょうね。

 

 

畑中恵の小説「わが殿」

畑中恵という作家をご存知でしょうか?

ぼくは「しゃばけ」というシリーズの作品を2つ読んだことがあります。

しゃばけ しゃばけシリーズ 1 (新潮文庫)

しゃばけ しゃばけシリーズ 1 (新潮文庫)

 

面白い作家だなあと思っていました。

 

で、去年だったか一昨年だったか、福井新聞に「わが殿」という畑中恵の小説が連載されてたのを見つけて、読んだのです。

さあ、この連載、福井新聞だけなのか、それとも地方紙連合で他の地方紙にも載っていたのか知りません。

いずれにせよ、面白かったのです。

 

舞台は、大野藩

そう、冒頭の大改革を実施していた頃の話。

「わが殿」とは、7代藩主土井利忠。

そして、内山兄弟の兄貴、七郎右衛門が主人公なのです。

史実に基づいたものですが、史実自体がかなり面白いです。

 

これ読んでから、大野藩に興味を持ちました。

で、この「福井県というところ」シリーズの中で、ちょっと書いてみようと思ったのです。

 

 

大野屋と大野丸

この二つは、この藩政改革の象徴です。

 

大野屋

これは、大野藩が経営する「商店」です。

大野藩の産物を大阪に持って行って、時期と相場をにらんで売れば、もうかり、国益になるではないかという考えです。

藩営の商店。でも、藩とか藩士とかという立場を超えて、商人・商店として活動しようということです。

 

安政元年(1854)内山七郎右衛門は、国産用掛りに任ぜられました。

そして翌年5月に大阪で店を開くことになったのです。

武士が商人になるのは、ややこしいので、ダミーの名義人「大野屋七兵衛」という人物をでっち上げて店を開いたのです。

そして「大野屋六兵衛」とか「大野屋七之助」とか、どんどん人物がでっち上げられ、函館など全国に23店舗以上が開店したとみれられており、国産物売買の他、金融業や運送業にもたずさわったのです。

かなり利益をあげたようです。

 

内山七郎右衛門は、藩の役職として年寄、蝦夷地用掛りなどを歴任し、万延元年(1860)には家老に昇任しています。

「人となり剛健短略」「特に理財に長す」などと評されています。

 

蝦夷

幕府は、安政元年の日米和親条約によって函館と下田を開きました。

これに伴い、函館とその周辺の土地を没収して(上知して)函館奉行を置きました。

 

そしてロシアとも日露和親条約を結びます。

この条約で、新たに長崎も開きましたが、ロシアとの関係で蝦夷地が注目されたのです。

そして、幕府は、蝦夷地の開拓で一旗上げたいものは申し出よとおふれを出したのです。

 

大野藩では、内山の弟、隆佐を中心に審議して、これに応募しました。

この機会に、ぜひ蝦夷地に行って働きたい。

幕府は、これを許しました。

 

何回か大野藩から探索隊が蝦夷地に行き、開拓を試みました。

 

大野丸

これ船の名前です。

蝦夷地開発のために、福井県敦賀の港から函館に通うために藩船が建造されました。

二本マスト、スクーナー型の船です。

 

内山隆佐は、奉行職を経て、1850年、西方代官になります。

上に書きましたが、大野藩の飛び地で、海に近いところです。

隆佐は海防に従事し、軍師となります。

そして安政3年蝦夷地総督となります。

安政6年に大野丸の処女航海を指揮して函館に行き蝦夷地開拓を主導しました。

 

幕府は、1860年大野藩主 土井利忠を「北蝦夷地開拓御用」に任じ、江戸での諸役を全て免じました。

 

内山隆佐は1864年に死去し、2ヶ月後に大野丸も根室沖で座礁、沈没しました。

この後も藩は蝦夷地開拓に挑みましたが、明治になって取りやめとなっています。

 

 

なかなか面白い殿様でしょ

小藩ですが、大野の殿様土井利忠は、なかなか面白い殿様でしょ。

利忠は、文久2年(1862)に隠居して、15歳の利恒に家督を譲りました。

 

このときに家中の者たちに宛てた文書には、

 

藩主となって40年あまり、家中一統が出精して勤めてくれ、特に天保13年の改革以後は粉骨砕身尽くしてくれたおかげで、公務等無難に勤めることができ、いささかの心障もなく隠居が出来ること喜びの限りである。

皆の忠勤、満足の事に存じ候(ありがとうということでしょうね)。

 

ま、かなりの意訳となってますが、家臣たちに大いに感謝して隠居しています。

そして次を担う利恒に対して、自分以上に頑張れよと頼んで、この文書(直書)は結ばれています。

 

 

畑中恵の「わが殿」では、主人公の内山七郎右衛門は、この殿様を大変に敬愛します。

また、利忠も七郎右衛門を頼りにし、主従の信頼関係というか、心の通いも素晴らしいです。

 

単行本になっているのかいないのか、申し訳ありませんが、よくわかりません。

もし、出版されたら、どうぞ読んでください。

とても面白いですから。