羽田空港で
1979年の正月が終わった頃、ぼくは羽田空港の国際線のロビーにいました。
成田空港ができて、アメリカに行くのなら成田に行かなければならないのですが、航空関連業者の人が、台湾の中華航空なら羽田から飛ぶと言うので、そのチケットを取ってもらったのです。
通常業務を行いながら、渡米準備をしたぼくは、英語を勉強する時間もモティベーションもありませんでした。
だいたい、住んでいたアパートを引き払い、荷物を知り合いの所に分けて預けて、出発までの日々を同僚のアパートに転がり込んで過ごしていたのです。アメリカに行ってからの事を心配する余裕は無かったです。
出発直前の夜に、「そうだ焼き魚を食べておかなければ」と思い付き、小料理屋みたいな所で食事をしたのが精一杯の個人的な準備でした。
羽田空港でフライトの時間を待っている時に、ようやく不安がこみ上げてきました。
英語なんて受験勉強だけでしかしていません。会話どうするの?英語聞いても分からないし。ああ、読んでもダメかもしれない、と言うかダメだ。26歳ですよ。大学卒業してからだいぶ経ってます。英語なんか触れても無い。
飛行機乗ってからどうすれば良いんだろ。ぼく、一人ぼっちで出発します。
中華航空はLAまで行きます。LAで国内線に乗り換えます。目的地はクリーブランド。
飛行機なんか、国内線を数回しか乗った事ない。国際線から国内線の乗り換えって、どうするの?
知らない、分からない、ああ、調べても来なかった。
「エディさん!」
近くにいた外人のおじさんに、派手な日本人男性が走り寄って来ます。派手な外人(ハーフ?)の女性も一緒に駆け寄って来ます。
あ、知ってる。歌手のAと、当時は夫だったロック歌手のKだ。
その外人のおじさん、一社だけテレビCMに出てた。Aのお父さん。
すぐ横に芸能人が2人いましたが、状況を把握しただけで、それ以上の興味はわきませんでした。
そんな精神的余裕は無かったです。
ただ、クリーブランドの空港に、迎えが来てくれることになってました。ぼくの勤め先と関係のある法人の日本人社員のN氏が、クリーブランドに住んでおり、迎えに来てくれると聞いてました。
ぼくはN氏と会ったこともありませんが、それだけが心の支えです。
クリーブランドまで
飛行機が飛びました。
さすがに中華空港、機内食にチャーハンがあったのが嬉しかった。後で、国内線に乗りかえてから気がついたのですが、CA、当時はスチュアーデスも中華航空はきれいでした。
飛んでる時間が、どうしようもなく長かったです。
後年、長い飛行時間の旅は何回かしてますが、この時は初めてだったし、不安もありで、眠ることもしませんでしたので、本当に長かったんです。
入国手続きも初めてでしたが、なんとかアメリカに侵入出来ました。
なんとなく他の乗客の流れに混じり、キョロキョロしてると、日本人と思われる若い男性が目に入りました。
国内線への乗り換えが分からないのですがと、声をかけると、彼は、やはり日本人で、アメリカに留学中、正月で日本に帰り、今こちらに戻ってきたところだと言います。
国内線まで、ちょっと距離があるからと、ぼくと一緒に歩いて連れて行ってくれました。
彼のお陰で、なんとか国内線に乗り込みましたが、LAからクリーブランドへのフライトも長い。
機内食が出るのですが、中華航空の中で結構食べたのと、緊張から食欲がありません。
さっきまでのスチュアーデスと比べると、あきらかに頑丈で力がありそうな中年女性に、要らないと機内食を断ると、強い調子で、「あなたは食べなければならない」と言われてしまいました。
後で考えると、ぼくは、相当めげている様子だったのでしょうね。
無理矢理のように機内食をあてがわれ、一生懸命食べました。
クリーブランドに着いたのは、だいぶ遅い時間だったような気がします。
空港も人が少なく、寂しい気がしました。
でも、そのおかげで、迎えに来てくれていたN氏をすぐにみつけられました。
その夜は、彼の家に泊めてもらいました。
優しそうな奥さんと、小学生くらいの男女のお子さん2人の暖かい家でした。