ちょっと総括
結局、明治維新ってのは、250年以上前の関ヶ原の仕返しじゃないでしょか。
西軍の総大将だった毛利輝元は、関ヶ原後、それまで120万石の大大名だったのに37万石に減らされました。長州藩です。
長州藩は260年ほどの間、ずっとこの悔しさを忘れなかったらしいですね。
新しい事をする時のために、ずっとお金を貯めました。これは個人の家でもそうだったらしいです。
そして人材育成を大事にしました。教育に熱心でした。
長州藩というと過激なテロリストというイメージですが、優秀な人もたくさん出ました。
西軍の負けが決まって、なんとか戦場から脱出しなければならない状況でしたが、薩摩が選んだのは前方へ進むという脱出方法。
正面突破。
はい、徳川家康の本陣があるんです、正面は。
薩摩軍は、前に出て自分が死ぬまで戦い、島津義弘が進むのを助けます。
あまりの迫力に家康も気押されたのか怖くなったのか、追撃中止の命令を出して、義弘は無事国に帰りました。
そして、その勇猛さのおかげだったのでしょうか、石高は減らされませんでした。
そんな武勇伝もありましたが、薩摩も関ヶ原の負け組です。
その負け組2藩が中心になって幕府を倒したのです。
明治維新は、新しい民主的な市民革命では無く、古い武士の世界観の中で新たな戦が起こり、薩長連合が勝利しただけの話です。
スローガンの尊皇攘夷てのも、維新後は攘夷なんて話も出てません。明治政府は諸外国と普通に付き合い、西洋文明にあこがれ、日本は近代化しました。
なんか、ご都合っていうか。
もし、明治維新が起こらず、あのまま幕府が続いていったとして、開国してしまってますから明治政府が直面した諸問題に、同じように出くわします。だから、同じように変化していくので、それほど変わらないかもしれません。総理大臣のメンツが全く違うでしょうけど。伊藤博文や安倍晋三などは首相になってないでしょうね。
狡兎死して走狗烹らる
これ、うさぎを狩って目的を果たしたら、猟犬は用が無くなるので殺して鍋で煮て食われてしまうという、中国の言葉です。犬食べますもんね。
戦が終わると、もう兵士を置いておくと金がかかるので「はいご苦労さん」と、お払い箱にしてしまうのです。
長州藩は、高杉晋作がアイデアを出した奇兵隊がありました。これは小銃装備兵で、西洋式の組織原理で作った軍隊です。下級武士と農民、商人、漁師、僧侶などで編成されており、「食いつめの」という状況が共通してます。跡継ぎの長男ではなく、次男三男あたりです。奇兵隊以外にも同様の軍隊があり、それらは「諸隊」と呼ばれました。
大活躍したんです。
奇兵隊をはじめとした諸隊は長州に帰るのです。勝ったのだから褒美もたんまり貰えるし、新しい社会ができるのだと、皆さん思っていたでしょう。
ところが、彼らを待っていたのは人員整理。
金もあんまり貰えませんでした。
新政府でも親兵の整理が行われました。
命懸けで戦った彼らは、もうお荷物になっていたのです。
- 攘夷主義は時代に合わない
- 給与支給は政府にとって経済的に負担が大きい
ということです。
長州では、除隊となった諸隊の元兵士たちの大きな反乱が起こりました。
- 解雇した戦傷者や老兵に生活の保障を
- 不正をしている諸隊幹部に厳罰を
- 有為な人材を長州藩の重職に抜擢しろ
- 国体を軽んじる洋化政策をやめろ
などの要求をして、山口藩庁を取り囲んだのです。
最終的には、東京から木戸孝允が戻ってきて、反乱軍を鎮圧し、首謀者を徹底的に捕まえて処刑しました。133名が斬首、さらし首。それも処刑はわざわざ死刑囚の故郷で、みせしめとして実施されました。
こういうのも明治維新の一つの面です。