武器船舶の引き渡し
江戸城は勝海舟と西郷隆盛の話し合いで、戦闘無しの無血開城となったのですが、幕府軍の武器や船舶は新政府軍に引き渡さなければなりません。一種の無条件降伏をする代わりに江戸市民の命や財産、そして徳川慶喜の身を守るのですから。
上の方が約束しても、兵隊が不満を抱き、勝手に約束を破るようなことになれば、せっかくの話し合いの結果も無意味になってしまいます。
と言うことで、勝海舟は引き渡し期限の4月11日に向かって、幕府軍の説得に必死になりました。
武器の引き渡し 陸軍
1番の問題は、幕府軍の兵士たちが失業してしまうことです。
勝海舟は、知恵を絞りました。
陸軍の武器は、それを使っている人間ごと受け取ってもらえないか、要するに幕府軍の兵隊を新政府が武器と一緒に雇ってよということです。
一生懸命交渉した結果、新政府は海舟の案を容認します。
うまいことしましたね。
ここで、「兵士」と言いましたが、これ必ずしも武士ではありません。
そういう話も書こうかと思ったのですが、書かないかもしれません。とりあえず、幕末あたりでは武士階級以外の兵士がいたということです。
長州藩に「奇兵隊」というのがあったのは有名ですが、あれは長州藩の専売特許じゃ無かったのです。
しかし、フランス軍の士官から訓練を受けていた伝習隊は脱走しました。行動を共にしたフランスの士官もいました。
伝習隊は北に逃げ、北関東、東北と戦いながら北海道に渡り、五稜郭で戦って最後に武装解除しました。
船舶の引き渡し 海軍
まず輸送船は勘弁してくれと勝海舟は交渉しました。この人、ほんとすごいです。
で、軍艦は8艘です。
これを引き渡さなければなりません。
しかし、榎本武揚ひきいる幕府海軍は、全艦船を引き連れ脱走します。千葉の館山に行っちゃいました。
海舟は、新政府総督府と幕府海軍の間を走り回りました。双方と交渉します。
本当に勝海舟はすごいです。
最終的に8艘の軍艦を折半することで話がまとまります。4艘ずつってことで。
なんで、そんな提案が容認されたのか不思議です。
榎本武揚は4艘を率いて北に向かい、皆さんご存知の通り五稜郭に入ります。
東北諸藩
会津藩
まず、会津藩は絶対にやっつけてやろうと新政府は考えていました。
会津藩の藩主の松平容保は京都守護職でした。あの新撰組を使っていたんです。朝敵です。
新政府は、大軍で総攻撃をかけます。
だって江戸城無血開城となったので、大規模な戦争が無くなってしまったのです。
手柄にありつきたい征伐軍の兵士たちはがっかりしてます。
新政府は会津藩と、もう一つ朝敵となった庄内藩をスケープゴートにしようと考えてました。
庄内藩
出羽、日本海側です。
幕府がギブアップする直前の1868年2月に、徳川家から出羽にある幕府領(7万4千石)を預け地とされました。
庄内藩は、ここに藩兵を派遣しました。幕府の年貢米を保管している倉庫があったのです。
新政府軍がこの年貢米を没収するために派兵してきます。
ところが、その年貢米の一部を庄内藩はすでに売ってしまってたのです。
要するに庄内藩は開き直りました。盗人猛々しいというやつです。
ということで、庄内藩は朝敵となりました。
仙台藩
ここは元々新政府に協力的でした。奥羽鎮撫総督府が置かれました。
で、この総督府の参謀だった世良というのが、高圧的な態度で会津攻めを仙台藩に強要するのです。ということで仙台は頭に来ていました。
そしてある日、この世良の密書に「奥羽皆敵」という文字があるのを仙台の人が見てしまいます。
ということで、仙台藩士が世良を殺害してしまいます。
これで新政府と敵対することになります。
奥羽越列藩同盟
上に書いたように3つの藩は、新政府に敵対しています。
この3藩の働きかけによって、東北、越後あたりの31藩が、奥羽越列藩同盟というのを結び、新政府に対抗するようになります。
しかし、よく見ると新発田藩、村上藩、天童藩など新政府側の藩もこの同盟に参加しています。
これらの藩は、庄内藩や会津藩の脅しにより参加させられていました。
同盟に参加しながら、新政府の方には連絡をとって、本当は新政府側だとわかってもらい、新政府軍が進軍してきたときに、新政府軍に加わって他の奥羽越の藩と戦いました。
「悲劇の」という形容詞だけで東北諸藩を見るのも、ちょっと違うのかもしれません。
結局、東北は新政府軍の前に降伏をしました。