太平の眠りを覚ます蒸気船 阿部正弘は頑張ったけど
黒船の来た時の、幕府の老中首座(総理大臣ですね)は阿部正弘でした。
優秀な人なんです。
25歳くらいから老中になったんです。
将軍は病気で返事できないから1年待ってと言ったら、「じゃあ来年またくるから、ちゃんとしといてね」とペリーは7月に帰っていったのです。
その時の将軍徳川家慶は、ペリーが去った10日ほど後に死んでしまいます。
ストレスがすごかったんですね。
新しい将軍は13代将軍家定。
でも、この新しい将軍、こういう難しい問題の解決に役立つ人ではありません。
老中首座の阿部正弘は、だいぶ困ったみたいです。
幕府の終わりの始まり
基本的に国内世論は攘夷が優勢。そんでもあの黒船の威力を考えると開国するしかない。どうすれば良いのか、悩んだんでしょうね。
阿部正弘は、各大名から旗本、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を広く求めます。
これは開幕以来初めて。
それでも名案はなかったんです。
しかし、意見を聞かれた連中は、すっかり国政を幕府単独ではなく合議制で決定しよう、俺たちの意見を聞けよという気分になってしまいます。「公議輿論」の考えが広がりました。
結果として幕府の権威を下げることとなったのです。
幕府の終わりの始まりです。
しかしながら、もともと老中たちの合議制で政治を行なっていたというのは、官僚政治ということで、その老中になるのは、幕府という役所の中で出世していった譜代大名なのです。そして、この頃の出世の条件としては、本人が優れていたり、家柄だったりもありますが、賄賂でなるのもいます。
天保の改革で教科書にも載っている水野忠邦なんか賄賂ガンガンで、自分が出世したら、今度はもらう側になれてウハウハという、調べるとアホらしくなる有様でした。ちなみに水野忠邦は阿部正弘の直前の老中首座です。阿部が追放しました。
そういうそれまでの体制というものが、少しづつ幕府をダメにしてきたのは事実です。
日米和親条約
とりあえず幕府は東京湾の入り口に人工島を作り、そこに大砲を据え付ける台場をいくつか作り、軍艦の建設(各藩にも奨励)など防衛体制を作りはじます。
翌年1854年2月ペリーが再訪します。
帰ったのは去年の7月だから1年経ってないです。
約1ヶ月ほどの交渉の後に、3月に日米和親条約が結ばれ、とうとう鎖国が解かれました。
当時の世論は攘夷。外人怖いってことです。
尊皇攘夷
尊皇という考えと、攘夷という考えは、それぞれ別なのですが、くっついちゃったんです。
誰がくっつけたの?って話なんですけど。
これ水戸藩なんです。徳川さん。
この人、諸国漫遊したかしないかよくわかりませんが、とにかく藩の事業として歴史編纂所を作って「大日本史」の編纂をさせました。
すごいんですよ、藩の予算の三分の一をこっちに回してたんです。
この歴史に対する基本姿勢は「天皇に対して忠か不忠か」という尊皇主義なんです。
ただ、これは「天皇が委任した幕府」という考え方で、徳川幕府の正当性を主張するもんなんですけどね。
ところで1824年に、水戸の大津浜というところにイギリスの船が来て、「新鮮な野菜が欲しい」と言うのです。ビタミンが不足してたんですね。
で、野菜を与えて退去させました。
この外国人との遭遇の印象が強烈だったのでしょうね、水戸の学者の会沢正志斎って人が、「あいつらの目的は我が国への侵略だ」と言い出します。彼らのアジアにおける悪行を知っていれば当然のことです。
で、この会沢さん、「新論」という論文を発表します。
「西洋人に対抗するためには、天皇を不変の君主とし、天皇が司る皇祖神に対する祭祀を通じて忠孝の道徳を人々に浸透させ、国内の民心をまとめる必要がある。また、外敵の侵入を防ぐため、沿岸防備を強化し、鉄砲訓練を徹底し、海軍を充実すべし」とかいうような内容です。
これで、尊皇と攘夷が融合しちゃいました。
決して幕府を倒せというものでは無いのですが、こいつが一人歩きしてしまい、勤皇の志士、倒幕思想のバイブルになっちまうのです。
天皇のご意見
「禁中ならびに公家諸法度」って法律みたいなのがありまして、天皇は政治的な行動を制限されていました。
今の憲法と似てますね。
でも、天明の飢饉(昔は飢饉が何度もありました)の際に、多くの人々が「助けてください」「食べるものがありません」と京都御所に拝礼したのです。
「千度参り」って呼ばれました。
1787年のことで、当時の光格天皇は、京都所司代に「人々に施しを」と要請され、幕府もこれに応えて米の放出を行いました。法度違反なのですが、幕府はこれを不問としました。
そして、1807年に、この天皇はロシアが盛んに北方に来ていることについて報告を幕府に求めました。
江戸時代に政治的な行動をされた珍しい天皇だったのです。
ところで、徳川慶喜の話の時に、慶喜を大変信頼し強く支持した孝明天皇のことを書きましたでしょ。
この孝明天皇は、上記の光格天皇にならい1846年に国際情勢の報告を幕府に求めました。
で、「海防を強化せよ」ということ勅書を出し、外交政策に口を出してしまいました。
不思議なんですが、それぞれが大きな時代の流れを作っていく、或いは流れに乗ってしまうってことがあるんですね。
災害の幕末
重なる大地震
日米和親条約が結ばれた1854年、その後の11月4日、南海トラフ巨大地震が日本を襲います。
安政東海地震です。
ものすごい被害だったようです。沿岸部は巨大津波にもやられました。
その翌年、1855年10月2日、江戸を直下型地震が襲いました。
揺れただけじゃ無く、大火災が江戸を包みました。
せっかく作った台場も大きく損傷、無駄になっちゃった。
阿部正弘の屋敷も潰れます。本人は助かりましたが、奥さんが大怪我、阿部正弘をなんとか逃して護った側室が亡くなりました。
幕府は大金の拝借を認め、阿部正弘は臨時の居宅を確保して、すぐに震災被害の対応に当たりましたが、数日働いたところで体調不良で出勤できなくなり、政権の座を降りました。そして1857年に39歳で亡くなります。
やはりストレス大きかったんですね。
コレラのパンデミック
地震の翌年は台風被害、翌々年はコレラです。ばんばん人が死にました。棺桶製造が間に合わなかったらしいです。
なお、1862年にもコレラとはしかが流行しました。先の安政5年のコレラの時の数倍の死者が出たそうです。
災害って政治も大きく影響
今のコロナ禍見てもわかりますが、災害が起こると、その時の政権に批判が出ますよね。
まあ、だれが政治しても変わらないのですが、とりあえずその時の政権が憎くなるもんです。