春嶽は号で、名前は慶永
福井の殿様たちを紹介した時に、さくっと触れましたが、第16代の福井藩主である松平慶永は幕末の四賢侯の一人です。
四賢侯とは、松平春嶽の他に、伊達宗城、山内容堂、島津斉彬の四人です。
なお、松平春嶽という呼び方の方が有名みたいですが、これは号で、名前は松平慶永と言います。
ここでは、いきなり春嶽と呼んでしまいます。
福井藩主になった経緯
最初は、伊予松山藩へ養子に入ることが決まってましたが、第15代福井藩主松平斉善が世継ぎのないまま急死したので、ちょっとしたインチキで、15代が亡くなる直前に福井藩の方へ養子に入ったことにして福井藩主となりました。
この時、春嶽11歳、1839年のことです。
で、同年に肥後熊本藩主 細川斉護の娘・勇姫と結婚しています。
いきなりの活躍?
さあ、11歳で藩主になった春嶽は、子供なので、しばらく江戸にいました。
しかし、藩主になった途端、福井に来たこともない11歳の子供が、
全藩士の俸禄を3年間半減し、藩主自身の出費を5年間削減することを打ち出し、福井の財政基盤の再建に乗り出します。
さらに、翌年(てことは12歳)、それまでの藩政の中心人物であった家老の松平主馬を罷免しました。
以前の福井の殿様たちのブログ記事を読んで頂ければわかっていただけると思いますが、福井藩の財政は歴代藩主の浪費のせいで火の車となっており、しかし将軍家との関係で幕府から援助が出るのをいいことに漫然とした経営がなされていました。
この、いきなりの改革が、春嶽本人の考えでなされたのでしょうか?
まあ、優秀な人ですから、そういうこともあったかも知れませんが、やはり背後に幕府の思惑、そしてそれに基づいて、春嶽の周りに配置された優秀な家来たちの考えが反映されたのではないかと、ぼくは思うのです。
教育し支えてくれた家臣たち
中根雪江
名前を見ると「あれ?」となりますが、この人は男性です。
「せっこう」「ゆきえ」いずれにせよ、これも号のようで、名前は師質(もろたか)です。
靱負(ゆきえ)とも言い、これから雪江、そして「せっこう」。
この人は、春嶽の11歳の時から、ずっと春嶽のそばにいます。
当初は教育係として付き、国学を教え、その頃の新しい思想も教え、そして藩政改革にも参与します。
さらに開国論を進言し、春嶽が政治総裁職などの中央の政治に参加した時には公武合体政策に従事し、ずっと春嶽を支えたのです。
鈴木主悦(ちから)
1854年から春嶽の側近となっています。
なんせ、あんまり素晴らしい人なので、福井の町人たちが、世直神社というのを造って、生きてるうちから神様として祀ってしまったぐらいです。
後で触れますが、橋本左内を見出して、春嶽に推挙したのはこの人です。
でね、書きたかったのは、ここからです。
春嶽が20歳前後の頃のことです。
春嶽が庭の手入れをさせたことが、鈴木主税の耳に入りました。
主税は、春嶽をつかまえて「家来や領民の難儀よりも庭木が大事なんですか。普段おっしゃっているのは、ただ、昔の偉い君主の口真似に過ぎないのですか」と迫ったらしいです。
これが一つの例として紹介されていますから、他にもいろいろ指導があったようです。
鈴木主税、中根雪江、橋本左内を祀っている祠。in 福井神社。
浅井八百里
側向頭取になり、雪江らとともに春嶽を支えました。
この人も口うるさく春嶽を指導したようです。
家臣との対面の時の姿勢が悪いとか、声が不明瞭だとか注意し、「見識も増したかと楽しみにしていたら、案外成長しておらず、がっかりした」とか言って、春嶽を叱ったという記録が残っています。
忠言に答える春嶽
この人の偉いところは、こういう口うるさい家来どもに対して、素直にこれを受け入れ、学んでいったところですね。
11代将軍の甥、12代将軍の従兄弟で、藩の殿様ですから、「無礼者」と言って処分してしまってもおかしく無いのですが。
春嶽は勉強家で、英語の単語帳が残っていますし、算用数字や西暦、ローマ字などを用いており、新しいものへの興味、進取の気質にも富んでいたようです。
これは春嶽公と主な家臣を祀っている福井神社です
ちょっと長くなりそうなので、この続きは、また今度。