この記事は、下記の本を参考に、Wikipediaで情報を補足して書いてます。
理解が不十分で、間違いがあるかとは思いますが、それは全くぼくが悪いのです。
13代将軍の義輝を殺した後の三好家の迷走
三好長慶が亡くなった後、家督を継いだ養子の三好義継は、三好三人衆(前回説明、三好長逸、三好政泰、岩成友通。三好家の家臣たち)と松永久秀の息子と共に、将軍の居所である二条御所を軍勢で取り囲みました。
この時、三好義継が何を考えていたのかわかりません。
計画通りなのか、もののはずみなのか、とにかく大勢で将軍をぶっ殺します。障子で将軍を押さえ込んで何人もでザクザクと刺し殺します。
さて、この時点で三好家の家督を継いでいる三好義継は、この将軍襲撃の時点までは、名前が違っていました。
三好義重といいました。
13代将軍を殺してから名前を義継に変えたのです。
義継の「義」は、将軍の名前に使われている字で、当時は将軍を助けたり、あるいは「助けているだろう」と将軍に迫って「はい」と言わせられるような人には、将軍から名前の一文字をいただくようなことが行われていました。
で、義継の「継」は、何かの跡を継ぐという意味の文字ですよね。
上に紹介した本では、三好義重から三好義継に名前を変えたのは、将軍を殺して、自分がその地位を引き継ぐ意思があったのだろうとしています。
もう、足利の将軍なんか関係ない。自分がその将軍の立場を引き継いでやるぜという意思表示だというのです。
この改名前の「義重」という名前は、1565年の5月1日に将軍足利義輝からつけてもらった名前です。
で、この足利義輝を殺したのが、その年の5月19日なんです。わずか18日後の凶行。
でね、この時の三好義継の年齢は17歳。
若気の至りというか、世間知らずの坊ちゃんが、俺は将軍の代わりだ、将軍の跡を継ぐものだと喚いても、家来の三好三人衆は年上で世の中わかっている。三好三人衆が義継を上手にリードしていくのは当たり前です。
当然、ちゃんとした足利の将軍を立てないとマズイという、非常に常識的な判断から、殺した義輝の弟の義昭を捕獲軟禁してしまいます。
この時点では、足利義昭はお坊さんでした。
この辺り、大河ドラマの「麒麟がくる」をご覧になっている方はご存知でしょ。
足利義昭は、なんとか軟禁状態から逃亡します。
14代将軍 足利義栄は四国から
三好一族の元々の地盤である阿波には、11代将軍義澄の息子である義維が、そしてその息子の義栄がいます。血筋からいっても第14代将軍にしてもおかしくない人です。
ということで、足利義昭を取り逃してしまった三好三人衆は、「あ、こっちでも良いじゃん」と阿波から足利義栄を連れてきて、これを将軍にしようとしました。ま、朝廷に迫って、そうしてしまうのですが。
14代将軍 足利義栄です。
さあ、せっかく名前を「義継」と変えた三好義継ですが、なんだ新しい将軍できちゃったじゃないか。俺を将軍にすれば良いのにと、ふて腐れてしまいます。
ところで、三好家で勢力を誇っていた松永久秀は、この前あたりから三好三人衆と対立していました。
三好家内の勢力争いで、それまでトップを取っていた松永久秀を追い出して、三好三人衆が幅を利かせたのです。
敵同士。
このあたりも「麒麟がくる」見てると、なんとなくそんな感じがしたでしょ。吉田鋼太郎。
でね、三好三人衆と行動を共にしていた三好義継は、なんと、逃げました。
だって、自分が大将なのに家来の方が偉そうだし、自分は将軍の跡を継ぐっていっているのに、また新しい足利将軍を作っちゃうんだもん。
で、三好義継、逃げて松永久秀のところに行くのです。
変だよね。変。ややこしい。
足利義昭を奉じて織田信長が上洛してきたら、この松永久秀と三好義継は信長派になって、三好三人衆と戦います。
「麒麟がくる」で見た通り、足利義昭がすぐに第15代将軍になってしまいます。
第14代将軍 足利義栄が将軍であったのは、わずか半年。
しかもこの14代、四国から海を渡って大阪へんには来たものの、京都に入ることはついに出来ずじまい。
挙げ句の果てに、病死。かなり気の毒な将軍でした。