70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

野村克也の話でもしよう

子供の頃、夏になると海水浴に連れて行ってもらいました。

福井は海がきれいで、良い海水浴場はたくさんあるのですが、ぼくは砂浜よりも岩場のところが気に入っていて、越前松島の岩に囲まれたところで泳いだり潜ったりするのが好きでした。

 

しっかりした記憶ではありませんが、その日は、カーラジオで南海ホークスのデーゲームの中継を聞きながら海に向かって行きました。

ピーカン、良い天気でした。

目的の越前松島に着いて車から降りようとしている時に、アナウンサーの興奮した声が響きました。

野村がホームランを打ったのです。

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誰でしたっけ、外国人のジャーナリストか作家か、日本にいて日本の野球に詳しい人が、野村はボロ雑巾の様にバッターボックスに立ち、なんの期待感も持たせない。でも次の瞬間バットを振ると、目が覚める様なホームランを打つ、って雑誌に書いていたのを思い出します。

 

 

長嶋茂雄が、ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球と呼ばれるのは、彼が立教からジャイアンツに入ってからプロ野球の人気が高まり、そしてジャイアンツが人気球団になったからです。

じゃあ、長嶋がジャイアンツに入る前までは、どこが人気球団だったのかと言えば、それは南海ホークスでした。

南海ホークスの中心バッターは野村克也でした。

さすがの南海ホークスも、野村克也も、人気の面では長嶋茂雄には勝てなかったですね。

「おれは日陰の月見草」って野村が言ったとか。

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プレイイングマネージャーって言葉を知ったのは、野村が現役選手のまま南海ホークスの監督を兼ねた時です。

チームの成績はパッとしなかったと思います。

でも、この頃、阪神からとった江夏をクローザーに転向させて成功させました。

やがて、奥さんがチーム運営に口を出したとかいう話が聞こえてきて、それからいろいろあって、野村はホークスから放り出されました。

 

生涯一捕手なんて言って、なかなか引退しませんでしたが、現役を引退してから、こんどは名監督として、ぼくたちを楽しませてくれました。

解説も面白かったです。

 

 

以前、「ナンバー」という雑誌で、野村克也の記事を読んだことがありました。

生まれたのは、今の京丹後市。貧しかったそうです。

貧乏からの脱出の目的でプロ野球に入ったと言われています。

ラジオ番組で本人が語ったところでは、その時に南海が採用した中ではキャッチャーが多かったそうです。なんで、こんなにキャッチャーが多いのかと不思議に思ってたら、ピッチャーの練習相手のブルペンキャッチャーが必要だったのです。

ブルペンキャッチャーでは試合に出られないし、大金も稼げません。

困ったなと思っていたら、チームのハワイキャンプについて行って、正選手の夜遊びへの罰のおかげで野村が試合に出してもらえる様になり、一軍でのプレーができるようになりました。

まあ、この辺は本人が語ることですから、本当は鶴岡監督が野村の実力を見抜いたということなんでしょうけれど。

 

ああ、そうだ、ハワイのホテルで食べた朝食が、ものすごいショックだったそうです。

豊かさの象徴になったのでしょうか、その後アメリカンスタイルの朝食がお気に入りになったらしいです。

ぼく、こういう話好きなんです。

 

その後は、大活躍。日本最初の三冠王にもなりました。

引退後も、ヤクルトや楽天、その他のチームで監督として成功しました。

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今日亡くなったと聞きました。

奥さんが呼んだのでしょうか。