70代の真実

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福井県というところ7 北陸街道、そしてついでに毛矢侍

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これは、非常に良い加減な福井市の中心部の地図です。

 

福井城址が示されていますが、昔は、この城はもっと大きかったし、濠ももっとありました。

足羽川は天然の川ですが、福井城の外濠の役割を果たしていました。

 

昔、赤い線の橋だけしか無かった

で、足羽川にかかる橋ですが、ここに名前が書かれた橋のうち、幸橋、桜橋は、江戸時代には存在しませんでした。

赤い線が通っている「九十九橋(つくもばし)」という橋だけは存在してました。

 

 

北陸街道

国道8号線は北陸街道とは少し違う

地図には、旧 8号線(フェニックス通り)という道路が示されています。

別に「旧」って書かなくても良いのですが、もっと東に8号線のバイパスが通っているので、「旧」と付けてみました。

南北に走る、街にとっては中心的な通りなので、市街部分を「フェニックス通り」と呼んでいます。

この「フェニックス」は樹木の名前ではありません。

「不死鳥」という意味です。

空襲の後に、福井大地震があって、壊滅状態から不死鳥のように、また街が出来たということから、「不死鳥」は福井市のシンボルでなので、この通りに「フェニックス通」という名前を付けたのです。

 

国道8号線は、京都の方から、琵琶湖の東岸、彦根米原、長浜、県内に入って敦賀、武生(越前市)、鯖江を通って福井に入ります。そして北上して石川県に入っていきます。

 

昔、同じようなルートを通る「北陸街道」という街道がありました。

近江の方から峠を越えて、県内(藩内)の今庄を通り、福井に向かって北上し、さらに北上して新潟の直江津の辺りまで通じていたそうです。

 

橋が無いから迂回する北陸街道

ただ、福井の街の中でも北陸街道と8号線は、ちょっと違ってました。

8号線が通る「幸橋」が、当時無かったのです。

城の近くに直接行けてしまうので、橋があると具合が悪いのです。

 

で、赤い線が北陸街道なのです。

 

九十九橋を渡って、北上する道は、今は「呉服町」という割合細い道です。

ぼくが小さい時には「呉服町商店街」でした。

 

九十九橋ってのは、こんなふうです

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今の北陸街道 (北国街道)    呉服町通り

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北陸街道というのが気になったのは、呉服町通りの中に表示してあるこの看板です。

ある日みつけました。


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呉服町通りの中には、「北国街道」の表示がちょっとずつあります。

 

北国街道(北陸街道)は、この呉服町通りを北に行き、今で言う「松本通り」を東に曲がり、だいぶ行ってから北上して石川を目指します。

そして、いつのまにか8号線と一致するのです。

 

福井市街にお城があるので、それを迂回する都合があるので、街中は変に遠回りすることになります。

 

 

昔は、関西方面、近江方面から福井、石川、新潟を目指す人は、みんなこの北陸街道を通ったのです。

 

京都から逃げてきて、吉崎に御坊を開いた蓮如さんも、何回か福井にやってきた坂本龍馬も、みなさんこの街道を歩いたんですね。

 

 

毛矢侍

福井の殿様、9代松平宗昌は、松岡藩主だったけど、福井藩主になったって、この前書きましたよね。

 

松岡ってのは、福井市からちょっと東に行ったところにある町です。

今は平成の大合併で、「永平寺町」となってます。

 

さて、宗昌が、福井藩主になるにあたって、松岡藩は無くなり、福井藩に吸収されました。

もともと1つの藩だったのを4代藩主光道の時に松岡藩というのを分離しただけなので、元に戻ったのですね。

 

で、松岡藩に勤めていた侍たちも、宗昌について福井に入ってきました。

しかしながら、お城の近くには、空きが無く、家を作れません。

 

ということで、足羽川の向こう、南側に松岡から来た侍たちが住みました。

川の向こう、ちょっと外ですね。

 

その辺りは、毛矢と呼ばれる地域でした。

今でも毛矢という地名はあります。

冒頭の地図を見て下さい。

 

で、毛矢に住む侍ということで、松岡から来た侍たちを「毛矢侍」と呼んだらしいです。

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幸橋南詰から南に向かって。

 

城の防衛の都合上、橋が作れませんので、この侍たちは舟で川を渡ったらしいです。

櫂でこぐのではなく、川の上に綱を張って、それを手繰って向こう岸に行ったそうです。

 

 

なんで毛矢侍の話をしたかと言えば

明治維新の直前、福井に三岡八郎という男がいました。

この人、毛矢侍。

 

で、その頃、福井に横井小楠という変な人、学者かな、が熊本から招かれていました。

どうも酒を飲むと、よろしく無かった人なのですが、なかなか優秀な学者。

で、さっき言った三岡八郎というのが、この横井小楠から学んでいたのです。

ま、小楠も彼が気に入っていたみたいです。

 

さて、北陸街道を通って坂本龍馬が何回か福井を訪れました。松平春嶽に会いに来たのです。

 

ある夜、横井小楠坂本龍馬に、面白い男と酒を飲もうと言って、足羽川を舟で渡って三岡八郎(後の由利 公正(ゆり きみまさ(こうせい))のところに行き、酒を飲んだと言う話です。

 

この話を読んだ時に、横井小楠が小舟の櫂をギッチラギッチラ漕いで、川を渡るイメージがぼくの頭に浮かびました。前に坂本龍馬を乗せているの。

で、南岸で三岡八郎が、その舟を見つめて待っている。

 

しかし、その後で、渡した綱を手繰って舟が行くんだと知って、ちょっとがっかりしたんです。

 

こんな話を書きたくて、後半付け足しました。

 

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