昨日の夜、寝床に入ってから学生の頃のことを思い出しました。
ぼくは東京にある大学に行きました。大昔のことです。
大学の文学部の前を通って、大きな通りから外れて進むと、原っぱがありました。
昔、進駐軍の住宅があった場所で、○○ハイツと呼ばれていた場所です。今は当然米軍のハウスなんかはありません。
ま、一部木造の建物が少しありましたが、そこにはもう米兵は住んでいません。たぶん、無人だと思います。
原っぱには、真ん中に細い道がありました。
野良猫、或いは家猫だけど好きな時にその原っぱにいる猫たちが、たくさん潜んでいます。
毎日、手提げの袋をパンパンに膨らませて、猫たちに餌をやりにくるおばさんがいました。そのおばさんがくると、猫たちはワラワラと姿を現すのです。
その原っぱを抜け、車がすれ違いできる幅の道路を渡ると少し土地が高くなります。原っぱ、或いは道路から上がる短い石段がありました。
その石段を登ると、住宅街になります。
木造の住宅が並んでましたが、それらの家々は、普通の住宅ではなくて、ほとんど下宿屋でした。
当時は、食事付きの下宿というのが下火になっていて、食事無しの間借り下宿が多かったです。
ぼくが住んでいたところは、さっきの石段を上がって、2、3軒目にあった下宿です。
結構大きな家で、玄関を入ると、左側に四畳半、右側に三畳間が一部屋ずつあり、奥は大家さんの居住空間になってました。
玄関には夜でも鍵は掛からず、それぞれの部屋のドアと、大家さんの居住空間の入り口に鍵がありました。
一階の三畳間の向かいには長い洗面台があり、その左側に2階に上がる階段がありました。途中で90度に折れる階段です。
2階に上がると、階段の左側にトイレ、右側に長方形のタイル張の洗面台がありました。
階段の正面に三畳間、その右側に四畳半、四畳半の右側は物干しです。
四畳半の向かい、階段の右側洗面台の右になりますが、四畳半に二畳ほどの追加のついた部屋が二部屋つながって一つの区画になっている部屋がありました。ここだけは小さな台所がついています。
三畳間の左隣に四畳半。
そこに行く廊下は90度に曲がって、その曲がった方の廊下沿いに四畳半と四畳の部屋が並んでおり、奥の四畳の部屋の向かいにも四畳ほどの部屋がありました。
台所のついた二部屋続きのところには、ぼくがその下宿に住み出した時にはお姉さんと弟が住んでいて、しばらくしたらお姉さんは出て行って、今度は妹が入りました。大家さんの知り合いの子供たちらしいです。
その兄妹が出て行った後、高校時代から友達だった学生が2人で住んでいました。
下宿人は8人と1組で10人いたわけです。
大家さんは、富山の出ということで、旦那さんに奥さん、小学生くらいの男の子がいました。静かな感じの旦那さんで、こちらへの干渉も無く、門限も無いし、住みやすいところでした。
仕事に出ていく様子もなく、下宿だけでやっていたのでしょうか。今考えると、それほど年寄りではなく、仕事をしていて当たり前の年齢だと思いますが、当時のぼくから見ると、十分なおっさんで、大人しそうな人でしたから、あまり気になりませんでした。それに旦那さんは、少し体が悪いような感じがしました。
ぼくは、その下宿に、社会人になって大森の方に引っ越すまでいました。仕事をするようになった当初も引越し先が見つかるまでいましたから、かなり長くお世話になりました。
東京に住んでいる従兄弟が、ぼくと一緒に不動産屋を回り、その下宿を探してくれたのです。
東京のことは右も左もわからない状態だったので、とても助かりました。どこが大学の近くかもわからなかったのですから。
当初、2階の部屋が空いたら移ってもらうからということで、一階の3畳の部屋に入りました。家賃が3千円ほどだったと思います。
家からは、3万円ほどの仕送りが毎月来ました。ありがたいことです。
2、3ヶ月で、2階の物干し台の横の4畳半が空き、そこへ移りました。家賃は4〜5千円くらいでした。
その4畳半は押し入れの上の段の板のところを改造してベッドがありました。洋服ダンスも、その押し入れベッドの横の壁の中に作ってありました。スペース的には非常に合理的で、部屋が広く使えて助かりました。畳はちゃんとしたサイズです。江戸間になるんでしょうか。
その部屋に2年ほど住んで、隣の三畳間に移ってもらえないかと大家に言われて移動しました。知り合いの家の子を入れることになったらしいのです。
三畳間にも押し入れベッドと洋服ダンスがあって、それほど窮屈な感じはしませんでした。
その後、さらに左側の4畳半に移りました。ここは表の道に面した部屋で、残念ながら押し入れベッドは無く、まさしく4畳半の生活をしました。
食事は全て外食。月末近くに金がなくなる時期があり、その時は、家から送られてきた米を炊いて、缶詰やレトルトカレー、近くの惣菜屋で揚げ物を買ったりして生きてました。もちろんインスタントラーメン、カップ焼きそばなんぞも食べてました。米以外のものはパチンコに中途半端に勝った時に景品に換えたものです。
風呂は、この下宿の西の方に走っている大通りを超えた向こうの銭湯に通いました。
下宿人は、学生ばかり。似たような年齢で、みんな田舎から1人でやってきた者たちなので、いつの間にか共同生活を営む仲間のような感じになりました。
こんなふうなことを、思い出すたびに書いてみたくなりました。
年寄りの思い出話です。