70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

東京から藤沢へ

さて、二泊したホテルも今日でチェックアウト。

今夜の宿泊は藤沢のPLAZA annexというところです。

 

東京の街をドライブ

車で東京の真ん中あたりを走ってみようかということで、八王子から根津美術館に向かいます。

甲州街道を新宿に向かいました。

東京電機大学あたりからケヤキ並木が街道を覆ってきれいですね。

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渋滞で暇なので、パチリ。運転しながらではありません。

 

新宿手前から渋谷方向へ。

明治神宮から原宿表参道に入り、そのまま南青山、根津美術館

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あああああ、やはり9台しか無い駐車場はいっぱい。

うろうろと駐車場を探してさまよいます。

サイズ的に入れなかったり。

実はトイレが我慢の限界に。

15分400円て、べらぼうだね。

でも、トイレ行きたいので駐車。

近くのコンビニに飛び込みました。

 

用を済ませて冷静になると、そこまで駐車代払ってまで美術館に入るのかと。

特別に見たい展示がある訳でもありませんし。

 

まあ、良いところをドライブできたから良かったということで、さっさと藤沢へ向かいます。

 

 

藤沢のホテルはいすゞ

直前9キロほどを渋滞で、そうとう時間かけてホテルに着きました。

いすゞの工場やプラザやらの一群の広大な敷地の中にあります

もともとは、いすゞの厚生施設、あるいは研修時宿泊施設なのです。

 

新しくて、駐車場もモダンな感じ。

駐車料金はタダだし。

7階建、でも、こじんまりしていて良いですね。

大浴場もあるし。

 

マッサージチェアは無料、ランドリーマシンも無料。部屋のトイレは風呂と一緒ではありません。

落ち着いてしみじみ回復を目指しましょう。

 

なんか気に入りました。

 

翌朝の食事つきで、2人で1万ほどです。

朝食はバイキング形式で、良かったです。

 

もし、今度この辺りに来ることがあるならば、またここですね。

東京スカイツリーとすっかり変わったわが母校

家内が午後用事があるので、電車と地下鉄など駆使して、その場所まで送ります。

 

自分の出た大学は

ついでに自分の大学を見てきました。

すっかり変わり果ててました。

小綺麗になっちゃって。

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40数年が経過しています。

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ああ、ここに坂をうまく使った建物があって、その二階はカレー屋で、食べようとしたら虫がルーの中に沈んでいる。

女の子呼んで、「あのう、これ」って言ったら、「ああ、ゴキブリですね」と笑って、その皿下げて新しいのを持ってきた。

ゴキブリだけ摘んで出してきたのか、新しいカレーを新しいご飯に掛けたのか、いずれにしても鍋に落ちたゴキブリの出汁が効いている。

なんてことを思い出しました。

もう、建物ごと新しくなってました。

 

どの店も、建物もすっかり変わってます。

 

うろうろしてたら、昔からあるキッチンの看板、いつも行くとハンバーグを手でペチャペチャと叩いて空気を抜いていたっけ。

蕎麦屋の看板、そして店の名前が古ぼけたテントにはげかけだけど残っていて、その下を見たら、ああ店は無くなっているというのを発見しました。

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昔、あれだけあった雀荘が無くなってました。

今の学生は麻雀なんかしないんだ。

 

そう、モハメド・アリジョージ・フォアマンとヘビー級のタイトルマッチをやった「キンシャサの奇跡」のテレビ中継を授業をサボって、マージャンをせずに卓に座って観ていた雀荘も無くなってます。

 

ぼくらが通った頃は、女の子なんか少なかったけど、今はたくさん歩いてます。

男の学生も妙に小綺麗です。

ああ、もう、すっかり変わっちゃったんだ。

 

東京スカイツリーは雲の中

とりあえず、その場を離れ、一人で東京スカイツリーに行きます。

浅草の駅に入ったら、あ、ここ知ってる。

名前変わったけど、ここ東武の駅だ。

数回、ここから電車に乗って仕事に行ったことあるんです。

んで、とうきょうスカイツリー駅って、押上だ。

降りたのは初めて。

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天気は悪いんです。

ちょっと雨がパラついたり。

空は雲で灰色。

 

ソラマチという、建物に着くと、チケットカウンターの矢印。

そいつを追いかけて、階段やエスカレーター登りました。

 

カウンターの女の子が、展望デッキとその上の展望回廊、どちらに行っても今日は曇っていて真っ白ですと言い、窓から白い雲だけが見えている写真見せます。

どちらになさいます?

え、デッキと回廊で値段違うの?

はい。

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ということで、せっかく来たから登るし、でも真っ白だったら仕方ないので、デッキだけにすることに。

休日だったから、デッキは2300円、回廊もだと3400円ですもん。

 

エレベーターの速さとスムーズさに驚きます。

たしかにデッキの窓は白い。

でも、どうにか街が見えました。

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なんかすごく疲れました。

さっき大学の周りを歩き回ったし、ここまで来るのもかなり歩いてます。

昨日はロングドライブだったし。

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デッキをグルグルと歩き回り、窓から見下ろし、ついでに雲の上でトイレも済ませました。

 

デッキから下に降りるのもかなり歩くんです。

 

どうにかエレベーターで降りて、下についたらソフトクリーム食べて、空いてるベンチでヒーヒー言ってました。

 

まあ、皆さんのブログ読ませてもらっていたのがちょうど良い休息。

かなり長い時間スマホ見て座ってられましたから。

このブログもiphoneでだいぶ書きました。

立ちたくなかったんです。

 

 

家内と合流

待ち合わせのカフェに。

座る前にカウンターで注文して飲み物をもらうのですが、疲れていて「ウィスキーなんてある?」と聞きました。

無いという返事。

言葉の具合で、外国の人だとわかります。

ビールあるとのことで、赤黒いビールをもらいます。

それをちびちび飲んで1時間以上家内を待ちます。

 

一緒に八王子に帰ると、もう9時近く。

 

 

 

 

 

東京に来ています

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夕方の光景。さっきチェックインしたホテルです。

結婚式場でやっていこうという意思が確かに感じられる建物です。

目の前の川は「浅川」、深川があれば浅川です。

 

東京で、楽に駐車場を確保するとなると、宿泊施設は、かなり限定されるのですが、ここはたっぷりとした駐車スペースが平置きで存在します。

駐車代無料だし。

それに、ここは中央線があって電車は便利だし、中央自動車道通って東京に侵入すると、一番手前で楽なんです。

 

ホテルにチェックインして、駅まで歩いてどのくらいかを確認にいきました。

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東京在住の方は、ああ八王子かとおわかりになるんでしょう。

ぼくは、以前東京に12、3年いましたが、八王子は初めてです。

 

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ここはずいぶん人がいました。

美味しいんでしょうか、それとも安いのか。

 

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暗くなるまで駅前をうろつきましたが、人々を眺めていると、東京らしい感じがしました。

福井県というところ11 松平春嶽3

ということで、有名な家臣を3人紹介します。

この人たち、面白いです。

どうしても書きたいので、付き合ってください。

 

幕末の春嶽を支えた家臣たち

橋本左内

天保5年3/11(1834)〜安政6年10/7(1859)

早く死にました。26歳。安政の大獄の時に獄死しましたから。

 

お父さんは藩医、医者です。

16歳の時に「啓発録」ってのを書きました。

子供の心を捨てて、勉学に励めという内容のようです。

これ書いたので、ぼくら福井の子達は学校で橋本左内の名前を聞かされてます。

そのせいで、どういう人だったのか、全く知ろうとしませんでした、これはぼくだけです。

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佐内公園にて橋本左内

 

「啓発録」を書いた翌年、大阪の適塾で学んじゃいます。

緒方洪庵について勉強しました。

 

そのうち父親が病に倒れたので、福井に戻って代診なんかして、医者の仕事します。

父親が亡くなり、代わって藩医になりました。

 

安政元年(1854)江戸に出ます。

蘭学蘭方医学を学びます。

でも、本人は医学から離れたいという希望があり、中根雪江鈴木主税などのとりなしで、春嶽の側近となります。

 

1857年に一旦福井に戻り、藩校の明道館の学監となりますが、すぐに江戸に戻り春嶽の手足となり政治に関わります。

春嶽、その他の活動が邪魔な井伊直弼は、言いがかりをつけて春嶽を隠居に追い込み、そして橋本左内を捉え、獄死させました。

26歳(これ数え年のはずです)で死ぬのは早かったですね。

 

西郷隆盛との交流がありました。

西郷隆盛西南戦争で亡くなるのですが、彼が死ぬまで、最後まで大事に持っていたカバンの中には、橋本左内からの手紙が入っていたそうです。

 

 

横井小楠

文化6年8/13(1809)〜明治2年1/5(1869) 

熊本から招かれた学者で実務家。春嶽の政治顧問。

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新しい国家と社会の構想を模索し、統一国家大統領制を考えていました。

  • 身分階層を超えた討議をして政治運営する
  • 外国との通商貿易をする
  • 産業振興
  • 国内における自律的な経済発展の方策を

今っぽいでしょう。

というか、どこかで聞いたことあるでしょう。その人の思想にも小楠は影響を与えてました。

 

この人、熊本で生まれ、熊本藩士。

どうも酒を飲むと陽気になってしまうのか、酔うと大声で屈託無く話をするとか資料には書いてありまして、酒の上のトラブルもありました。

 

熊本藩の藩校の塾長したり、江戸に勉強にいったりしてましたが、酒でいろいろあって自宅謹慎。

筆頭家老にも覚えが悪くなります。

 

で、自宅に引きこもってたのですが、みんなが勉強に来て、私塾みたいになっちゃった。

坂本龍馬やらも訪問したらしいです。

そこへ福井の藩士が訪れて、「これはすごい人だ」と福井に知らせます。

 

福井藩から「ご意見聞かせてね」と求められ自説をしたためて福井に送ったりしたら、すごい人だから福井に来てよということになりました。

 

熊本の殿様は細川さん。福井藩松平春嶽の奥さんの里です。

そういう関係が効いたのか、当初謹慎中の小楠をよそに行かせるのはマズイと渋っていた熊本藩ですが、結局福井に行くことを承知しました。

 

横井小楠は、身内の不幸などで熊本に帰らなければならないようになるのですが、何回も福井と熊本を往復します。

福井では、藩校の明道館で講義をし、後で出てくる三岡八郎由利公正)も講義聴いてます。

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小楠が熊本に戻っていた時に、狩りに出て、藩主専用の場所で鉄砲を撃ってしまい、また謹慎をくらってます。

そのあたりガードが緩いです。

 

しかし、幕府の政事総裁職となった春嶽が、小楠を江戸に呼びます。

助言者として、幕政改革に意見を述べています。

勝海舟らと交流ができたり、坂本龍馬とも馬があったようです。

 

ただ、文久2年暮れに、熊本藩江戸留守居役の別邸で熊本の人たちと酒を飲んでいたところを刺客に襲われます。

刺客も熊本の人たちです。

けっこう思った通りのことを口にする性格なので、まあ、恨みも買ったんでしょう。

 

刀を外して飲んでいたので、急な襲撃に刀を手にすることが出来ず、取り敢えずその場を脱出。

福井藩邸まで戻り、予備の刀を持って引き返しました。

しかし、すでに刺客は去っており、一緒に飲んでいた人は切られていました。

 

熊本では、この小楠の行動が問題になります。

士道忘却。自分だけ逃げやがって。

切腹しろという話まで出ましたが、福井藩が何とかかばいます。しかし、熊本藩士では無くなってしまいました。

 

明治維新を迎え、新政府の参与となったりしますが、明治2年にまた刺客(熊本の人たち)に襲われ暗殺されました。

 

他人をあまり気にせずに、好きなように生きた人ですね。

春嶽と巡り合い、自分の才能を思い切り発揮できたので、破滅型の人格ですが、幸せだったんじゃないでしょうか。

 

 

 

岡八郎あるいは由利公正

昔の人は、名前をたくさん持ってたりしますが、苗字ごと違う名前を持っていた人もいます。

ここで取り上げる由利公正も、その名前の前は三岡八郎と言います。

とりあえず、ここでは由利公正と呼びます。

 

文政12年11/11(1829)〜明治42年4/28(1909)

横井小楠の殖産興業策に触発され、小楠から財政学を学びました。

福井藩財政再建を行います。

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春嶽が政事総裁職に就任すると側用人になりました。

坂本龍馬との付き合いがありました。

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明治維新を迎え、五箇条の御誓文の原案を提供しました。

 

由利公正は、明治政府の財政面での役目を担いますが、いろいろあって明治2年に辞職してます(こういうの多いですね、福井の人間は)。

 

明治4年東京府知事になりました。

岩倉使節団に参加してアメリカ、ヨーロッパを視察し、帰ってから板垣退助江藤新平らと民選議院建白書を提出し、やがて元老院貴族院の議員となってます。

子爵なんです。だから貴族院もいけたのです。

 

なんか生命保険の会社も作り、社長になってますね。

 

坂本龍馬の言葉「天下の人物といえば西郷隆盛と三岡八郎

 

 

歴史篇は終了

とりあえず、福井の歴史篇はこれで終了します。

でも、「福井県というところ」という企画は、まだ続けるつもりですので、よろしくお願いします。

 

 

 

福井県というところ10 松平春嶽2

ところで春嶽って何?

福井藩16代藩主 松平春嶽ってどんな人なのか。ただ、幕末の主役だとか、四賢侯の一人だとか言われても、よくわかんないというあなた、わからないですよね。

 

で、ざくっと紹介します。

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11歳で藩主となりましたが、子供の間は領地に来れません。17歳の時に初めて福井に来ました。

福井では藩校の明道館を作っています。

 

中央では、この人、水戸斉昭や島津斉彬あたりとつるんでました。

で、徳川慶喜を次の将軍にしようと、いろいろ企みます。

 

ペリーが来航した時(1853)に、春嶽は鎖国意見を述べています。

しかし、1856年には開国論に転じています。

このあたりは、側用人 中根雪江の影響が大きいです。

 

1858年に橋本左内を江戸に呼び、徳川慶喜を将軍にするため、画策します。

この時の大老井伊直弼

時代は安政

橋本左内は逮捕され、春嶽は隠居させられます。

安政の大獄です。

 

やがて桜田門外の変で、井伊直弼は斬り殺されます。

春嶽はある程度好きなように動けたみたいですが、1862年に政界復帰。

幕政に参加。

政事総裁職に任ぜられます。

 

天皇に会ったりしてます。

将軍に辞職しろよと言い、自分も政治総裁職を辞任します。

 

でも、朝廷から呼ばれて京に行き、朝議参預を仰せつかります。

その後、京都守護職となります。

朝議は、鎖国(横浜鎖港)を決めました。で、春嶽は朝議参預を辞めてしまいます。

 

この頃、幕府は長州征伐を行なっています。

再征伐の話も出てますが、春嶽は、再征伐反対を唱えています。

 

ようやく徳川慶喜が将軍、最後の将軍に就きます。

春嶽は四侯会議に加わります。

 

そして議定職に任じられた春嶽は、徳川慶喜に対して将軍辞職勅許の旨を伝えます。

王政復古です。

徳川慶喜大政奉還します。

 

しかし、鳥羽伏見の戦いが起こってしまい、春嶽は議定職を辞任します。

 

明治新政府は、春嶽を内国事務総督に任じます。

そして議定という職に任じられるのです。春嶽はこれを断りましたが、許されず、職につきました。

民部官知事となり、民部卿に就任します。大蔵卿も兼任しました。

しかし、やっぱりそれらも辞めてしまい、気ままに分筆生活に入ります。

 

 

ざくっとの紹介ですが、幕府、朝廷、明治新政府と、立場が対立するところから、どういうわけか大人気ですね。

で、どの役も、ちょっとやって気に入らなくなり辞めてしまうというパターンです。

まあ、安政の大獄がありましたが、生まれから良いとこばかりを歩んでおり、正直ドラマ性は薄いです。

 

しかし、徳川幕府から明治政府に至る激動の時代の重要な局面に、求められて顔を突っ込み、思ったことを主張し、妥協もせずにさっさと辞めて、それでも再び求められて活躍し、また自由になるという、なんとも時代に求められた人物です。

周りに、徳川慶喜勝海舟坂本龍馬西郷隆盛、大久保利次などの人物が絡んでくるのです。

 

何をしたのかといえば、明確に業績を挙げるのはなかなかなのですが、やはりこの人がいなかったら、ああいう歴史の展開にはならなかっただろうと思います。

 

ぼくとしては、この好きなようにやってる気ままな自由さが好きです。

 

 

活躍を支えた家臣たちは、この次に

前回、春嶽を育てた家臣たちを紹介しましたが、やはりこの人の周りに優秀な人材が寄ってきます。

そして、かれらの考えを取り入れて、春嶽は己の考えを時代に問うていくのです。

そういう家来たちのことは、また次回

 

 

 

福井県というところ9 松平春嶽1

春嶽は号で、名前は慶永

福井の殿様たちを紹介した時に、さくっと触れましたが、第16代の福井藩主である松平慶永は幕末の四賢侯の一人です。

四賢侯とは、松平春嶽の他に、伊達宗城山内容堂島津斉彬の四人です。

 

なお、松平春嶽という呼び方の方が有名みたいですが、これは号で、名前は松平慶永と言います。

ここでは、いきなり春嶽と呼んでしまいます。

 

福井藩主になった経緯

春嶽は、御三卿の一つ田安徳川家に生まれました。

最初は、伊予松山藩へ養子に入ることが決まってましたが、第15代福井藩主松平斉善が世継ぎのないまま急死したので、ちょっとしたインチキで、15代が亡くなる直前に福井藩の方へ養子に入ったことにして福井藩主となりました。

 

この時、春嶽11歳、1839年のことです。

で、同年に肥後熊本藩主 細川斉護の娘・勇姫と結婚しています。

 

いきなりの活躍?

さあ、11歳で藩主になった春嶽は、子供なので、しばらく江戸にいました。

 

しかし、藩主になった途端、福井に来たこともない11歳の子供が、

藩士の俸禄を3年間半減し、藩主自身の出費を5年間削減することを打ち出し、福井の財政基盤の再建に乗り出します。

 

さらに、翌年(てことは12歳)、それまでの藩政の中心人物であった家老の松平主馬を罷免しました。

以前の福井の殿様たちのブログ記事を読んで頂ければわかっていただけると思いますが、福井藩の財政は歴代藩主の浪費のせいで火の車となっており、しかし将軍家との関係で幕府から援助が出るのをいいことに漫然とした経営がなされていました。

 

この、いきなりの改革が、春嶽本人の考えでなされたのでしょうか?

まあ、優秀な人ですから、そういうこともあったかも知れませんが、やはり背後に幕府の思惑、そしてそれに基づいて、春嶽の周りに配置された優秀な家来たちの考えが反映されたのではないかと、ぼくは思うのです。

 

 

教育し支えてくれた家臣たち

中根雪江

名前を見ると「あれ?」となりますが、この人は男性です。

「せっこう」「ゆきえ」いずれにせよ、これも号のようで、名前は師質(もろたか)です。

靱負(ゆきえ)とも言い、これから雪江、そして「せっこう」。

 

この人は、春嶽の11歳の時から、ずっと春嶽のそばにいます。

松平春嶽といえば中根雪江です。

 

当初は教育係として付き、国学を教え、その頃の新しい思想も教え、そして藩政改革にも参与します。

さらに開国論を進言し、春嶽が政治総裁職などの中央の政治に参加した時には公武合体政策に従事し、ずっと春嶽を支えたのです。

 

鈴木主悦(ちから)

春嶽の時の寺社奉行町奉行を務め善政をしいた人です。

1854年から春嶽の側近となっています。

 

なんせ、あんまり素晴らしい人なので、福井の町人たちが、世直神社というのを造って、生きてるうちから神様として祀ってしまったぐらいです。

 

後で触れますが、橋本左内を見出して、春嶽に推挙したのはこの人です。

 

 

 

でね、書きたかったのは、ここからです。

春嶽が20歳前後の頃のことです。

春嶽が庭の手入れをさせたことが、鈴木主税の耳に入りました。

主税は、春嶽をつかまえて「家来や領民の難儀よりも庭木が大事なんですか。普段おっしゃっているのは、ただ、昔の偉い君主の口真似に過ぎないのですか」と迫ったらしいです。

 

 

これが一つの例として紹介されていますから、他にもいろいろ指導があったようです。

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鈴木主税中根雪江橋本左内を祀っている祠。in 福井神社。

 

浅井八百里

儒学者で、中根雪江の従兄弟。

側向頭取になり、雪江らとともに春嶽を支えました。

 

 

この人も口うるさく春嶽を指導したようです。

家臣との対面の時の姿勢が悪いとか、声が不明瞭だとか注意し、「見識も増したかと楽しみにしていたら、案外成長しておらず、がっかりした」とか言って、春嶽を叱ったという記録が残っています。

 

 

忠言に答える春嶽

この人の偉いところは、こういう口うるさい家来どもに対して、素直にこれを受け入れ、学んでいったところですね。

11代将軍の甥、12代将軍の従兄弟で、藩の殿様ですから、「無礼者」と言って処分してしまってもおかしく無いのですが。

 

 

春嶽は勉強家で、英語の単語帳が残っていますし、算用数字や西暦、ローマ字などを用いており、新しいものへの興味、進取の気質にも富んでいたようです。

 

 

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これは春嶽公と主な家臣を祀っている福井神社です

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ちょっと長くなりそうなので、この続きは、また今度。

 

夏の空、晴天て良いですね

ジュラシックワールド/炎の王国

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アマゾンのプライム・ビデオで、「ジュラシックワールド/炎の王国」見つけました。

前作のジュラシックワールドが、あまり面白くなかったのですが、クリス・プラットガーディアンズ・オブ・ギャラクシーなどで気に入っており、暇つぶしに観ようかと。

 

で、これ面白かったのでした。

前作よりだいぶ良いです。

前作を観て、もうこれは観ないと心に誓った方、観ても大丈夫ですから。

 

写真に恐竜が写っていますが、映画ではなくて福井駅を出たところの景色です。

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悪ノリですね。


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恐竜がいない風景もあります。

 

しばらく天気悪いみたいなので、ピーカン景色を

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おばちゃん、ごめんなさい。

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おじちゃんも、ごめんなさい。

 

 

暑いから、頭もくらくら平和ボケ。

 

 

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これ公衆トイレ。

 

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あのカラス撮ろうとしてカメラ構えているうちに、カラスは左端に寄っていってしまいました。