70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

今夜もプロレスナイト

「ぼくは新聞を毎日3紙読んでいる」

昔、東京で働いていた頃、尊敬する先輩が言いました。

「日経とデイリースポーツと東京スポーツだ」

なるほど3紙。

ぼくも、その頃、普通紙(いろいろ変えましたが、最後は東京に住んでるから東京新聞)と東京スポーツを読んでましたが、デイリーまでは手が出てませんでした。

 

いずれにせよ、みなさん東京スポーツは読んでました。

ご存知のとおり東京スポーツは夕刊紙ですから、仕事の帰りに駅のスタンドで買って電車に乗るのです。

スタンドにくるりと丸めて円錐筒状にしてあるのを引き抜いて買うのですが、ちょうど衝撃的な一面の縦見出しが、見えるように紙面が構成してあるのです。

で、縦に二つ折りの一面記事を広げると、その縦見出しの続きの言葉が見えるのです。

たいがい「か?」という言葉が、折り目の向こうに隠れていました。

そういうところが好きだったのです、東京スポーツ

プロレスの記事も載ってましたし。

 

一番印象に残っている縦見出しは、「猪木が死んだ」ってやつです。

これは「か?」無しだったと思います。

もちろん本当に死んではいないのですが、最初から見出し文を信用していないので、「か?」が無くてもそれなりに受け止められました。

 

ハルクホーガンとの一戦で、場外にあるリングの鉄柱を背にした猪木に向かってホーガンがアックスボンバーをぶち込んで、反動で猪木が後頭部を鉄柱にぶつけて失神しました。

気絶すると舌が丸まって喉の奥に引き込まれて窒息するから、誰かが猪木の口に指を突っ込んで舌を引き出したとのことで、長い舌をベロリと伸ばしたまま失神してる猪木の写真が一面に配置されてました。

 

ぼくは猪木の失神負けという事を、素直に信じました。

敗北でも、そういう激しく危険なところギリギリにいる猪木が魅力的でした。

担架に乗せられ、観客からの好奇の視線を避けるためにブルーシートを被せられた猪木が病院に運ばれた写真もあったような気がします。

 

で、あれから数十年。

あの時に担架に乗っていたのは別人。

前田日明だったのだと、前田日明本人がYouTubeでしゃべっちゃった。

猪木は、自分の失神KO負けというショッキングな結果を演出し演技したのです。

仲間のプロレスラーたちもすっかり騙され、坂口征二も後で怒っていたそうです。

そういうところが好きなんです、猪木。

 

そういう出来事を踏まえた上で、猪木が日本プロレスを追放される前の、1970年のドリー・ファンクJr との60分間ノーフォール時間切れ引き分けと、1971年の世界チャンプになる寸前のジャック・ブリスコとの試合のテレビ中継録画をYouTubeで観てました。

面白いです。素晴らしいです。

今と全然違います。

ワンツースリーのカウントが普通に早い。

今みたいに、嘘くさくワンツーまでカウントして、スリーのカウントに思い切り時間をかけて、抑え込んでいる相手を跳ね除ける時間を与えて、双方力の限り闘っているという演出しないのね。

 

猪木は、日本プロレスを追い出され、自分で新日本プロレスを立ち上げました。

新日本を立ち上げても、聞いたことの無いような外人選手しか呼べず、そのため、猪木はどんな相手と試合しても、相手を150パーセント以上に見せて、スリリングでエキサイティングなプロレスを提示できる素晴らしいプロレスラーになりました。場合によっては自分の失神KO負けを演じられるほどに。

でも、ぼくは、若い時の、日本プロレスにいた頃のアントニオ猪木が好きです。

昔の動画を見て、そんな事を思ってました。