学生の時は、足が元気だったんですね、本屋で立ち読みをよくしてました。
当時、五木寛之という作家が大人気で、本屋にもすごくたくさん置いてありました。
平岡正明が、「俺たちの好きな作家」と五木寛之のことを書いていましたが、まさに「俺の」ではなく「俺たちの」という言い方がぴったりの作家でした。
ブームというか、時代だったんです。
彼の単行本は、中編をいくつかまとめて一冊にしてあるのが多く、立ち読みにちょうど良かったのです。中編一つか二つ店頭で読んで、ちょっと歩いて別の本屋で、その次の中編を読む、なんてことをして、ほとんどの本を立ち読みさせて頂きました。
あ、「青年は荒野をめざす」は高校の時にちゃんと買って読みましたよ。
でも、そうやって立ち読みでほとんどを読んだせいで、彼の大長編「青春の門」は、全く手を付けていません。改めて、申し訳ありません。
思い出したのを契機に、今度読ませていただきたいと思います。
立ち読みは、他の本や雑誌もしました。要するに、教科書以外はほとんど立ち読みをしてました。
大学の図書館をなんで使わなかったのか不思議ですが、思い出すと、図書館にも行きました。でも、書庫の中に入れるタイプではなく、分類カードのところに行き、読みたい本を司書の方にお願いするタイプだったので、面倒くさく利用しなかったのでした。
ところで、当時、ぼくはオーディオ装置もレコードも持たないジャズファンでした。
新宿などにあったジャズ喫茶で、いろんなレコードを聴いていたのです。
本といい、レコードといい、貧乏な学生だったんですね。
スイングジャーナルという雑誌がありました。
ジャズの雑誌です。
あまり手に取りませんでした。ジャズファンだけど、その雑誌のファンでは無かったんでしょう。
たまにちょいと拾い読みをしました。
ある日、スイングジャーナルを手に取ると、来日したマイルス・デイビスにインタビューに行った記事が目にとまりました。
マイルス・デイビスはトランペット奏者で、すでにジャズという音楽がロックみたいに金にならなくなった時代に、唯一ジャズで金が稼げるプレイヤーだと言われていた人です。
スターですね。ジャズの帝王。
「死刑台エレベーター」という映画がありますが、マイルスがパリに行った時、映画監督のルイ・マルに頼まれて映画のラッシュフィルムを見ながら即興でトランペットを吹きまくって音楽をつけたという有名な話があります。
さて、スイングジャーナルのインタビュー。
マイルスが宿泊しているホテルの部屋に行くのです。
マイルスは日本に来ると、天麩羅そばを必ず食べたそうです。ホテルの部屋に出前させるのです。食べ終わった頃を見計らって部屋を訪れてのインタビューです。
気難しいのは、写真見てもわかりますが、記者はかなり工夫してアタックしました。
仏頂面でしゃべらないマイルスに「バードの話を聞かせてくれ」と言ったのです。
バードと言うのは、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーのあだ名です。
ちなみに、チャーリー・パーカーは、1955年に30台の若さで亡くなった麻薬中毒者で、ビバップ、要するにモダンジャズを作った人です。
ぼくは、モーツァルトとチャーリー・パーカーは天才だと思っています。
ニューヨークで大人気になったチャーリー・パーカーが、カリフォルニア目指して演奏旅行をしてシカゴに寄った時に、情けない音でトランペットを吹く歯医者の息子がやって来ました。
バードは、その若者を気に入って、そのまま演奏旅行に加えてカリフォルニアに行きました。
そのシカゴで拾ったトランペットがマイルス・デイビスです。
バードはマイルスとたくさんの録音を残しています。
「バードの話を聞かせてくれよ」
インタビュアが、こう言ったら、それまで口が重く不機嫌な顔で座っていたマイルスが、突然笑い出して、「あれは、ひどかったよ」と、うれしそうに話し出したそうです。
バードは、カリフォルニアで金が無くなり、いつもの売人が逮捕されて麻薬が手に入りづらくなったり、それで酒の量が増えたりで、ボロボロになり、録音途中で吹けなくなった、あの有名なラバーマン・セッションを行ったあげく、カマリロ州立病院に麻薬中毒患者として監禁入院したりで散々でした。
そのころの騒動に、マイルスがどれほど関わっていたのか知りませんが、バードが死んで何年も経っているのに、日本で記者から話をせがまれると、笑いながら思い出話をしてしまうんですね。
大迷惑な人だったけど、面白くて、好きだったんでしょうね。
大昔に立ち読みしたこの記事を、今でも思い出してしまいます。
ちなみに、バードのこういった騒動は、ずっと後になって、クリント・イーストウッドが「バード」という映画を作って見せてくれています。
主演、チャーリー・パーカーを演じたのは、アメリカの笑福亭鶴瓶、えっと、名前は、フォレスト・ウィテッカーです。