子供の頃のように

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幕末の訪米団アメリカ上陸

渡米する一行 ポウハタン号と咸臨丸

渡米する三人は、正使、副使、目付という役目で、それぞれに9人の従者、その他に勘定担当、外国担当者、医者、通訳などがそれぞれに数名の従者を連れ、そして食事を作る人たちで、総勢77名になりました。

本当は、この他に陸路で三役を運ぶための駕籠と駕籠かきも用意するつもりでしたが、さすがにハリスさんが「馬車を用意しますから」と駕籠は無しになりました。

 

一行を乗せる船は、ポウハタン号。アメリカ政府が迎えに寄越した船です。軍艦。

日本の使節が乗り込むと、提督、艦長以下312名のアメリカ海軍士官が正装で出迎え、整列した水兵が銃をささげて敬礼しました。

要するに、アメリカ合衆国も精一杯の敬意と友好にて日本使節を扱ったのです。

 

そして、このポウハタン号に、日本の船、咸臨丸が護衛艦として随行したのです。

咸臨丸は日本製では無く、オランダ製ですが、日本人による外洋航海の実習的な意味合いがありました。そして、ポウハタン号に乗り切れない使節の行列のための供揃えの人々や荷物の運送にも必要だったのです。

この咸臨丸の責任者は、軍艦奉行の木村さんですが、指揮役として勝海舟が乗り込み、通訳にジョン万次郎、ついでに木村さんの従者に志願した福沢諭吉もなぜか乗ってます。

そして、外洋航海の経験の浅い日本人スタッフを助ける意味合いで、アメリカ海軍のブルック大尉と11名のアメリカ水兵も乗り込みました。

 

ブルック大尉

ブルック大尉はアメリカ海軍の軍人ですが、科学者でもありました。深海測定器なんぞを発明しています。

1858年、ブルック大尉は日本沿岸を測量するために来日しました。

で、台風のために測量船が座礁しました。幸い死者は出ませんでしたが、貴重な測量機器や測量データの確保が心配でした。

江戸幕府はその機器やデータの全てを確保し、ブルックさんの船員たちを手厚く保護し、良好な宿舎、食料、使用人、金銭をあてがいました。

ブルックさん一行は、日本人の親切さや礼節、人間性に触れ、大変感謝し、しかも精巧な機器が一つも壊れておらず日本人の丁寧な物の扱いにも感心したのです。

ブルックさんは、咸臨丸の航海に一緒に乗組み協力したいと申し出たそうです。

彼らの航海中の給料について軍艦奉行の木村さんはブルックさんに相談したら、それはアメリカ政府から給料が出てるから心配しないでと返事されました。

 

大変な航海とアメリカ上陸

1860年2月13日(安政7年1月22日)ポウハタン号は横浜を出港しました。

日本人たちは、外洋の荒い波に船酔いとなり、ゲロゲロと航海を続けました。

途中、ハワイ(この当時はハワイ王国アメリカの州ではなかったです)に上陸し、船酔いを治めながらカメハメハ4世と王妃に謁見したりしました。ハワイでも大歓迎だったのです。

そして、ようやくサンフランシスコに到着します。

咸臨丸は、ここでお役御免で、必要な修理等を済ませてから折り返し日本に戻りました。お世話になったブルック大尉ともお別れですが、帰路航海のためにアメリカ水兵が4名ほど咸臨丸に残ったそうです。

 

パナマ鉄道で、小栗は"カンパニー"を知る

訪米団を乗せたポウハタン号は、1860年3月18日にサンフランシスコからパナマに向けて出港します。

一行はパナマで下船し、パナマ鉄道に乗り替え陸路を行きます。鉄道に乗るのは皆さん初めての経験でした。

ここで小栗忠順は、アメリカ側接待委員に、パナマ鉄道の建設費がいくらで、その資金はどのようにして調達したのかと質問します。

建設費は約700万ドルで、資金は、民間の鉄道組合を作りアメリカ商人たちが出資して集め、鉄道の運営の利益を出資者に配分していると説明を受けます。

小栗忠順は、この時初めて株式会社、出資公募の概念を知るのです。

 

大西洋側のアスペンウォールから再び船でワシントンに

この船旅で、一行は船の中で亡くなった水夫の葬式を見ます。

アメリカ人は水夫の葬式に、提督や艦長などの上司が参列し、悲しみの心情をあらわしている様子を日本人訪米団は知ります。

当時の日本では下役のものが亡くなっても、上司が葬儀に参列などしませんから、この葬儀の様子に日本人たちは感銘を受けたようです。

太平洋の航海においても、船酔いに苦しむ日本人たちを介護してくれるアメリカ水兵の真情にも触れてましたから、彼らは次第にアメリカ人に対して「形式的な礼儀よりも真情でつながる人々」と理解するようになってきたのです。

 

1860年5月14日(万延元年閏3月24日)に訪米使節はワシントンに上陸しました。

軍楽隊が出てすごい歓迎ぶりでしたし、市民たちも大勢集まり、すごい騒ぎだったようです。

アメリカの新聞には「日本人は身長は低いが至って義心が厚く、また槍や剣術に熟達していて、剛勇な気性を持っている。初めて外国に航海してきているのに少しも恐れる様子なく街中を歩き、物を盗るようなこともなく、正直な人たちである。この使節に加わっている者たちは勇猛な戦士が選ばれていて、常に二本の刀を身につけ、その刀は恐ろしいほどよく切れる」と記されました。日本から同行して歓迎準備でワシントンに先回りしてた軍の偉いさんからの情報をもとにした記事だったのでしょう。面白いですね。

とにかく大歓迎だったのです。

一行は、7階建のウィラードホテルに案内されます。皆さん、この大きな建物に驚いたらしいです。

 

さて、ホテルからホワイトハウスに向かう際の使節のトップ3人の服装を紹介します。

狩衣姿に鞘巻の太刀を腰につけ、頭に風折れ烏帽子、足元は麻草履というようなものです。

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勘定組頭以下の者は、布衣を着て、麻草履。

これは、上の絵(狩衣)に似たような服装です。

この服装だけでも、物凄いインパクトですね。ワハハ。

トップ三人はそれぞれ馬車に乗り(本来は駕籠なんですけどね)、馬車でしたがう供侍がそれぞれ2名づつ、徒歩侍が2名ずつ、毛槍1名ずつという10万石大名の格式での行列です。その行列の前にアメリカ騎馬将校数人を先頭に真っ赤な装束の海軍軍楽隊といった按配です。

もちろん警護のアメリカ兵士たちが、この行列を取り囲みながら移動するのです。

すっごいです。大騒ぎになるのは当たり前ですね。ぼくも見物したいです。

 

アメリカ大統領が待ってます

ホワイトハウスではブキャナン大統領はじめ政府要人が一行を迎えます。

そして条約の批准書が取り交わされたのです。

「国際社会へ出てきた日本人は、排他的ではない。落ち着きと知性がある」とタイムズに書かれています。

 

使節団は、アメリカ大統領が選挙で選ばれるということを知ります。驚きだったようですね。

なお、この後10月に大統領選挙が行われ、民主党のブキャナンに代わり、共和党リンカーンが大統領に就任することになるのです。

 

訪米団一行は、この後、フィラデルフィアでも大歓迎を受け、小栗忠順は政府造幣局にて日米金貨の分析実験を行い、日米の通貨交換レートが不当だと認めさせます。残念ながら交換レートの変更には至りませんでしたが、この日本人の優秀さは話題になりました。

 

そして、ニューヨークをおとずれ、一行はブロードウェイでパレードを行い、ものすごいことになります。見物客は50万人だったと言われてます。

 

新しい技術と知識の吸収

蒸気を動力とする鉄の国、それがアメリカでした。一行はいくつかの工場の見学をします。非常に熱心で、彼らの好奇心・向上心・熱意はアメリカ人にも伝わったようです。

小栗は、日本とアメリカの金銀通貨の価値の比較調査のための分析実験を試みながら、近代的な工場施設を、どうやって、経費いくらで、何年かけて、どこに、誰の指導で立ち上げるのかについても、調査と考察を行っていました。

 

帰国の旅

このようにアメリカは日本からの訪問団を大歓迎しました。

帰国の船旅もアメリカの船を用意して、旅費は全てアメリカ合衆国政府が負担しました。

 

一行は1日も早く帰国して、この成果をこれからの日本に役立てたいと願い、帰りは来る時と同じ太平洋航路を望みましたが、いろいろな状況から、帰りは大西洋航路となりました。

この人たちは、日本人初の世界一周をしたのです。

イギリスやフランスも、彼らに寄って欲しいと希望しましたが、早く帰国したいという思いから、最低限の寄り道で帰ります。

途中、香港にも上陸しました。

小栗たちは、イギリス人の中国人に対する態度と扱いに大いに驚きました。道の中央は白人が歩き、中国人は端を遠慮しながら歩くのです。そこらの中国人が邪魔になると、イギリス兵は棍棒でぶちのめすようにして追い払ったり整理しています。目撃した訪米団の人の日記には「胸が痛む」という記述があります。

日本が、いつこうなるかもしれないという危機感を十分認識しながらの帰国となりました。

 

万延元年(1860)9月に一行は帰国しました。

おおよそ九ヶ月間の旅でした。

帰国した日本は、一向が旅立った時とは大きく変化をしていました。

 

 

 

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