70代の真実

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こぼれた話

ハプスブルグ家

皆さん、ハプスブルグ家っての聞いたことがあるでしょ。

と、既に知っているということを決めつけるのもなんなんですが。

神聖ローマ帝国とか、ハンガリーとかオーストリアとか、ボヘミアとか、ポルトガル、スペインなんかの王様の家系。要するにヨーロッパを支配した家です。

 

昨日、世界をポルトガルとスペインで分けようとしていたと書きましたが、一皮剥けばどちらの王様もハプスブルグ家。

ハプスブルグ家の世界征服計画だったのですね。

 

この2国は、張り合っていましたが、王様は従兄弟同士みたいな感じです。同じハプスブルグ家。

ところで1578年にポルトガルの王様が亡くなりましたが、後継がいなかった。決めてなかったのです。

そこで、亡くなったポルトガル王のいとこのスペイン王が「俺がやってやるよ」と言い出したのです。

それ、おかしいでしょ。それぞれ張り合っているんですよ。それなのに王様が同じってダメですよね。

しかし、結果的にスペイン王ポルトガル王を兼ねてしまいました。1580年から1640年まで。

スペイン王は、できるだけ2つの国状態を保持しようとはしましたが、やはり具合が悪かったのでしょうね、最終的にポルトガルは独立しました。

 

皆さん「イエズス会」って知ってますよね。と、また決めつけですけども。

このイエズス会ってポルトガルの布教組織なんです。

スペインのは「フランシスコ会」。国によって違うんです。

ぼくは、これ、今回ようやく認識しました。

 

で、日本に対する布教活動は、イエズス会だけが認められていました。誰からって、ローマ法王からです。

スペインは、ローマ法王が決めたことですが、それを何とか覆そうとし、ちょっと反則も行いました。

 

 

 

ポルトガルもスペインも、カトリックの宣教師により現地の先住民にキリスト教を広めて、心を先に征服して、その国を植民地支配したのです。

心を操縦することの有効性は、戦後の日本を見れば明らかでしょ。

 

 

オランダ

オランダは、毛織物の生産でだいぶ景気が良かったらしいです。

ここを治めていた貴族の旦那が戦士してしまいまして、その娘はハプスブルグ家の人と結婚しました。この御亭主、神聖ローマ帝国の皇帝になるんですけどもね。

ということで、オランダはハプスブルグ家のものとなりました。

 

で、後ほど、スペインのハプスブルグ家のものになりました。スペインの領土ということですね。

 

ところが、オランダにはプロテスタントが普及していったのですが、スペインはカトリック

ということで、宗教的な原因もあり、オランダに独立運動が盛んになりました。

これ簡単には実現できず、80年戦争て長い戦争を経て、ようやくオランダは独立したのです。

 

オランダは独立を勝ち取る前から、独自のアジア戦略を展開しました。

商人の国なのです。

 

スペインはフランシスコ会ポルトガルイエズス会というカトリックの布教機関を手先として、布教と占領支配というやり方をしました。

オランダは、オランダ東インド会社という会社を作りました。これはオランダの商人たちが作った会社です。

独立前の独立運動展開中だったので、アジアルートの香辛料をスペインから買ったりするのは、いろいろ具合が良く無かったのです。

で、独自のアジア航路開発をする必要がありました。

ということで、オランダはこのオランダ東インド会社が対アジア貿易を担いました。

で、この会社、国から契約締結の権利や交戦権を与えられてました。

プロテスタントの国ですからローマ・カトリックの布教活動に乗っかることは出来なかったのですね。商人が国の手先となったのです。儲かるしね。

 

ついでにイギリスも、ここはやはりローマカトリックと縁を切って、イギリス国教会てのを作ってしまったです。

で、オランダと同じように、イギリス東インド会社というのを作り、こっちも商人主体です。

 

イギリスもオランダも、スペインなどの船を襲って海賊行為してたらしいです。

この2カ国も日本を狙いました。

 

最終的に長崎の出島でオランダは日本との交易が許されました。鎖国状態の外国はオランダに絞られたようです。

 

スペインとポルトガルは下心がすごいので、徳川は遠ざけることとしたのです。