先日、室町幕府の終わりの頃の将軍について、10代、11代将軍のことを書きました。
これを書いてから、約一月。
なんかね、この辺りの時代はごちゃごちゃしてて、スピードも早く、登場人物も同じような名前の人が多くて、スッキリ書けないのです。
ということで、ずいぶん時間が経ちましたが、続き行きます。
前回、11代将軍の足利義澄が権力者細川政元に支えられていたんだけど、細川家の内紛で細川政元が暗殺されてしまい、そのどさくさに10代将軍だった足利義稙が再び将軍の座に着いたと申し上げました。
この10代将軍のクーデター成功により、11代将軍の義澄は都から逃げました。
逃げた先は近江の国。ここを仕切っていた六角氏を頼ったのです。
六角氏に保護された足利義澄は、まあ詳しいことはよく知りませんが、それなりの女性をあてがわれて、子供を作ります。
この子供が、足利義晴です。
足利義澄は、この後、1511年に近江で病死してしまいます。
第12代将軍 足利義晴
さて、義晴のお父さん11代将軍義澄が京を追われた後、将軍に復帰した第10代将軍の足利義稙は、時の権力者細川高国との仲も良くなく、家出を繰り返していました。
義稙が、細川高国とちょっと対立していた阿波の細川澄元のところへ行った時点で、細川高国は義稙を見放します。
細川高国は、11代将軍義澄が近江で作った子供、足利義晴を迎えに行きます。
義晴は、この時点で11歳。当然、細川高国の思いのままですね。
ということで10代将軍だった義稙は阿波に放っておかれ、第12代将軍が誕生しました。
阿波のややこしい話、そして三好一族
細川家は、そこらじゅうに親戚がいます。阿波にも細川澄元がいて、これは都の権力者細川高国と対立しています。
ややこしいことに、阿波にも11代将軍足利義澄の子供、足利義維がいるのです。さらに家出してきて将軍の地位から追われた10代将軍の足利義稙が来たのです。
で、足利義稙は、前から阿波にいた足利義維を自分の養子にしました。
ということで、足利義維だって将軍になってもおかしくない人なんです。
以前、阿波の細川澄元は家臣の三好之長を伴い、細川高国と戦いました。最終的に敗れて三好之長は殺されて、細川澄元は阿波に逃げ帰ったことがありました。
さて、この時殺された三好之長の跡目を継いだのが三好元長です。
時は流れ、細川澄元の息子、細川晴元は三好元長と共に、足利義維を担いで、海を渡り京都へ攻め上ろうとするのです。
ここら辺の話は、どうしても三好一族のことを説明しないと分かりづらいです。ただ、登場人物がやたら多い時代なので、「え、三好一族の話もするのかよ」ということで、あまりたくさんは語られないようです。
でも、とりあえず、サラッと三好一族の話もしながら、書き進めて行きます。
戦乱の中の将軍
細川晴元と細川高国の戦いが繰り広げられ、将軍の足利義晴は、細川高国が劣勢になる度に都を追われ、近江、そして朽木へと逃げました。
ただ、転々としながらも、足利義晴は、ずっと将軍であり続け、幕府の機能は逃げた先で継続されていました。
近江は六角氏の領地で、六角氏を頼って義晴はここへ逃げました。
朽木は、今の高島市(琵琶湖の西側)のあたりで、ここは将軍を支える臣下たちの領地があったらしいです。
いずれにしても京都に近く、さらに何かあったら北陸や丹波の方へ逃げやすい場所でした。
従って、将軍と都(天皇や公家)との連絡はできていたようです。
こうなると将軍義晴は、近江の六角定頼を頼るしかなくなります。
六角定頼は、それまでの敵であった細川晴元と和睦します。
細川晴元は、12代将軍の足利義晴を、そのまま将軍として扱うことになり、足利義晴は、都に戻りました。
なお、六角定頼は自分の娘を細川晴元に嫁がせます。しっかりした関係を結び、六角と細川晴元の二人で幕府を意のままに操るのです。
さて、細川晴元に阿波からついてきた三好元長は面白くありません。
だって、足利義維をずっと庇護してきたんですよ、なんで急に足利義晴に乗り換えるんですか。
で、支えてきた主君細川晴元と家来の三好元長が対立しちゃうのです。
細川晴元は、三好元長が畠山と戦っている時に、一向衆をそそのかして、三好元長の背後から一向一揆が襲うように仕向けます。
このため三好元長は戦いに敗れ、河内で自害してしまいます。
足利義維は、かわいそうに阿波に戻らされます。彼のことをみんなは「阿波公方」と呼びました。
ということで、12代将軍足利義晴は、細川晴元、六角定頼とのバランス体制の中で幕府を運営します。
そして嫡男 足利義輝が誕生します。義晴は、さっさと義輝に家督を譲り隠居することにします。
足利義輝は、11歳になったときに、将軍になります。13代将軍 足利義輝です。「麒麟がくる」で向井理が演じてましたね。
三好長慶 戦国の第一号天下人
ここから、三好長慶に注目して書いていきます。
主君の細川晴元に、そっと裏切られて亡くなった三好元長の嫡男が三好長慶です。
三好の家督を継いだときには、長慶は10歳でした。
ちょっと繰り返しになりますが、三好は阿波の一族です。
時が流れ、三好長慶は智勇兼備の武将として成長します。
畠山家の家臣で、畿内に強い勢力を持つ遊佐長教という河内の守護代がいました。
この娘が三好長慶に嫁ぎます。
そして天文8年(1539)に長慶は三好家の本拠地を、阿波から摂津へ移しました。大阪の方ですね。
長慶は摂津で力を蓄えます。
元の本拠地の阿波では、長慶の弟たちがしっかりと留守を守ってます。
そして、細川晴元の仲間で、父の仇の木沢長政などを打ち破り、細川家の中で父以上の勢力となっていきます。
天文18年(1549)嫁の父親、岳父の遊佐長教の援軍を得て、三好長慶は、主君であり同時に父の仇の細川晴元に反旗を翻したのです。
細川家の内紛
細川晴元の前の権力者であった細川高国は、細川晴元と三好元長によって殺されましたね。
この氏綱さん、実のお父さんも、養父も細川晴元に殺されたのです。
ということで、二重の父の仇である細川晴元に対して、細川氏綱は兵を挙げました。
三好長慶の戦い
三好長慶の父親は元長ですが、この元長と対立していた三好政長てのがいました。
当然、こいつも三好長慶の敵です。
やっつけてしまいました。
これはヤバイということで細川晴元は大津へ逃げます。六角氏のテリトリーです。晴元・六角とバランスをとっていた足利義晴も一緒に大津へ逃げました。天文18年(1550)
天文19年(1551)足利義晴が死去します。13代将軍の足利義輝は近江にいます。
この時点で、三好長慶は畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)、四国(阿波、讃岐、淡路)、そして播磨、伊予、土佐の一部も領地とする大大名となっています。
天文21年(1552)三好長慶は、細川氏綱を管領とする条件で、足利義輝と和解します。ということで、足利義輝は京都に戻ります。
しかし、翌年足利義輝は、よせばいいのに細川晴元と通じて、三好長慶と戦い、負けて、朽木へ逃げます。朽木は5年間になりました。
この辺り「麒麟がくる」で、朽木にいたところが描かれてましたね。
天下人 三好長慶
永禄元年(1558)再び三好長慶は将軍 足利義輝と和睦します。
足利義輝 ー 細川氏綱(管領) ー 三好長慶(実質の権力者) という体制が確定します。
三好長慶は、都において室町将軍の役割である畿内の支配と地方大名の統制を間接的に担いました。
後の織田信長と同じです。
信長の前の、戦国時代の天下人第一号です。
三好長慶は、弟たちを各所に配置して、長い戦乱で荒れた都を復興しようとし、そして堺を一大貿易港にしました。
もちろん旧勢力の抵抗も続きます。
そして、嫡男、頼りにしている弟たちが死んでいきます。
三好長慶も永禄7年(1564)病死するのです。43歳でした。
嫡男が先に死んでいますから、養子の三好義継が家督を継ぎました。
まだ、三好義継は若いので、家臣ですがナンバー1の松永久秀と、三好三人衆が彼の後見となりました。
三好三人衆とは
これ、後でも出てくるので、簡単に説明します。
三好長逸は、三好の重鎮、長老と言われる人で、要するにうるさい叔父さんです、三好長慶にとって。
三好政泰は、長慶の弟 実休の次男坊で、やはり長慶の亡くなった弟の十河一存の跡を継いだ人です。長慶の甥です。
岩成友通は、三好家の家臣です。出世頭ですね。
松永久秀について
この人物、「麒麟がくる」では吉田鋼太郎が演じています。変な人だけど、信長がのしてくるまでは京の実力者だった感じですね。
この人は三好長慶の家臣です。
幕府との折衝などの政治活動を行なっていました。
昔からの家臣の家の子ではなくて、いつの折りからか三好長慶の家臣にしてもらったのです。
三好三人衆の岩成友通も途中から長慶の家臣となり、活躍を認められて出世していきました。
信長も、家柄とか気にせず、実力主義で、成果が出ればどんどん取り立てるのですが、この辺似ているというか、この時代の大名は、そういう考えだったのでしょうか。
松永久秀は、政治活動を三好長慶の長男義興と一緒にしていて、一緒に官位を授けられたりして、主君の嫡男と同格の扱いをされてました。
三好家の家老みたいな立場だったようです。
再び13代将軍 足利義輝のこと
この人、幼くして将軍となり、その時の実力者の庇護のもと将軍をこなすが、後ろ盾が別の勢力と争って負けて、自分も京都に戻れず近江や朽木で幕政を行い、やがて、敵と和睦して京都に戻るという人生で、父親の足利義晴の人生とよく似ていますね。
細川高国→細川晴元→三好長慶 という実力者の変遷に、翻弄された親子。
将軍暗殺
三好長慶が亡くなった後、跡を継いだ三好義継は、永禄8年(1565)、三好三人衆を率いて将軍のいる二条御所を取り囲み、襲い、将軍 義輝を殺してしまいます。
実は、三好義継の名前は、この時点では義重でした。将軍を殺した後に義継と改名したのです。
ぼくが読んだ本では、この改名は、自分が将軍の跡を継ぐという意味で、義継としたのではないかと書かれていました。
この事件の後の三好家の動きも変なのですが、そのことと、第14代、そして最後の第15代将軍の話は、また次回ということで。