1960年の八千草薫は、拝むと寿命が延びますよ
テレビ見るものが無かったので、Prime Video観てたのです。
「壬生義士伝」、「美女と液体人間」、「ガス人間第一号」と同じ日に3本も観ました。終わりの2本は、ずいぶん昔のですが、綺麗な女優さん観て楽しんだのです。
最後のは1960年の八千草薫。無茶苦茶きれいです。
綺麗なおばさんとか綺麗なおばあさんとかいうイメージを持ってましたが、この1960年の八千草薫の破壊力はすごいです。今の女優やタレントは、みなさん力負けしてます。
2003年の中井貴一は寿命はのびないけど、面白かったのです
「壬生義士伝」てタイトル見て、ぼくは義士伝だから忠臣蔵だと思い込みました。
で、壬生といえば京都。うーん、大石内蔵助が仇討ちの企みがバレないように、京都で芸妓遊びした話かな、なんて。
まあ、それにしても壬生で女遊びは無いだろうと不審に思うほどはこの映画に興味を持ってなかったのです。
と言うことで、ぼくは浅田次郎の原作を読んだことがありません。
この映画、中井貴一がすごく良くて、面白かったのです。
でも、原作を読んでいないせいか、いくつかの疑問が残りました。
それを書いてみたいと思ったのです。
映画の概要
生まれが下級武士ですから、すごく貧乏。妻が口減らしのために川に入って死のうとするほど貧乏。
このまま藩士としていても、金は稼げません。
脱藩します。
要するに出稼ぎ。
京都で、新撰組の組員募集に応じて入組試験を吉村貫一郎は受けます。
剣の腕は、かなりのもので合格。新撰組に入ります。
この人、脱藩の理由が貧乏からの脱出、妻と息子、娘を食わせるためです。
金のために働いています。それは、はっきりしています。
やがて歴史の流れの中で、新撰組はお払い箱、最後官軍と戦いながら散っていきます。
そんな映画です。
ぼくの疑問
1・最初の疑問
新撰組の就社試験では、剣の腕が試されます。
なぜか、真剣を持たされます。
立ち合いを見物していた斉藤一(佐藤浩一)は、吉村貫一郎の太刀筋を見て、「これは人を斬ってきたものの剣だ」と気付きます。
これね、疑問というわけでは無いのですが、幕末間近の社会で、下級とはいえ藩士だったのですから地元で人は斬って無いはずです。
ということは、脱藩した後、新撰組にたどり着くまでの間、どこかで人を斬って収入を得ていたということなのでしょうか。
良い人そうなキャラなのですよ。
2・銭ゲバが義のために戦うのは?
この主人公、とにかく金です。
何をしても、金をもらいます。稼いだ金は全て田舎の家族へ送ります。
金を稼ぐことこそ彼の目的。守銭奴です。
それが途中から変わってきます。
もう徳川の時代も終わりで、新撰組も用がなくなるから、さっさと見切りをつけて天皇側の組織に入ろうよ、金も新撰組よりずっとたくさんもらえるからと、裏切り者の組員に誘われます。彼のいう通りなんです。そういう歴史の流れですから。
でも、主人公は断ります。それでは義が立たない。
なんで?
家族を守るために働いているんでしょ。
今、新撰組に見切りをつけるべきですよ。
しかし、吉村貫一郎はキッパリ断るのです。
何が変わったの?
3・大政奉還したんだよ
もう、新撰組から離れて、別の稼ぎを考えれば良いはずです。
新撰組の残党は、皆さんご存知の通り幕府軍に加わり、官軍と戦い続け、土方歳三などは、最後、函館の五稜郭で華々しく戦って散りました。
でも、吉村貫一郎は、家族のために出稼ぎをしにきたのです。
錦の御旗に刃を向ければ、もう賊軍になってしまいます。
そんなことに加わるのは、おかしいです。第一、金は貰えないです。
しかし、鳥羽伏見の戦いで、将軍徳川慶喜が幕府軍を置き去りにして船で逃げ、皆が撤退する最中、吉村貫一郎は薩長連合に向かって一人刀を抜いて突撃していきました。
なんで?
家族どうするの?
一緒に戦っていた佐藤浩一演じる斉藤一は実在の人物で、明治維新後新政府で警官やったりしてますよ。
なんで佐藤浩一について行って、新政府に雇われたりしなかったんでしょうか。そういう生き延び方いくらでもあったんじゃ無いですか。
そうしなかったから「義士伝」なんでしょうけど、義士でなくても良かったんですよ。
4・最後、盛岡藩藩邸に逃げ込みます
突撃しましたが、手傷を負いながらもなんとか助かった吉村貫一郎は、ヘロヘロになりながら盛岡藩藩邸に逃げ込みます。
脱藩した藩ですよ。
そこには子供の時からの親友、大野次郎右衛門が責任者として詰めていました。
盛岡藩としては、藩を守るために絶対に中立、幕府軍にも官軍にも加担しないという方針です。
そこに賊軍の兵士が逃げ込んできても、放り出す以外やりようがありません。
藩士とその家族たち、藩の全員を守るためなのです。
わかっていて、なんで盛岡藩の藩邸に逃げ込むのでしょうか?
しかも、吉村貫一郎は、脱藩者なのです。裏切り者、犯罪者。
よくわからないのです。
大野次郎右衛門は、吉村を藩邸の庭に通します。
助けたいけれど助けてはいけない。
表を官軍が、「賊軍の落武者を匿うと、その藩は賊軍とみなす」とアナウンスしています。
「立ち去れ」
それ以外の言葉は言えません。
しかし、大野次郎右衛門は、「この座敷を貸してやるから、ここで腹を切れ」と精一杯の情けをかけてやります。
原作を読めば、こんな疑問に答えが出るんでしょうね
ずっと考えたのですが、やはり新撰組にいる間に、吉村貫一郎に心境の変化ができたのでしょう。
人を斬りまくっている日常において、侍として人としての心を保つためには、こういう変化が必要だったのでしょうか。
映画を見ただけでは、なかなかわからない事が残りました。
あ、佐藤浩一の演じた斉藤一って、「るろうに剣心」にも出てましたよね。江口洋介が演じてました。
この映画は、明治になって、すっかりジジイとなった斉藤一が、夜、孫の具合が悪くなって医者に連れて行くところから始まります。
その医者は、大野次郎右衛門の息子、その妻は吉村貫一郎の娘でした。
何も知らずに医者に来た斉藤一は、待合室の片隅の写真立てに吉村貫一郎の写真があるのを発見します。
いつも自分に向かって「斎藤先生」と呼びかけてきた吉村貫一郎を回想し、独り言のように「吉村先生」と呟くのです。
斉藤一は、吉村貫一郎が故郷を想いながら、故郷の風景の説明をするのを聞いた事があります。
おそらく酒を飲んで、何回も聞いていたのでしょうか。
孫を連れて斉藤一は、その盛岡の風景の説明を、しみじみと吉村貫一郎の真似をして語りながら夜道を帰っていくのです。
納得できない点が残りましたが、なかなか良い映画でした。
ぼくはちょっと泣きました。