鎌倉幕府滅亡までをかいつまんで
足利家というのは、鎌倉幕府でもそこそこ大事にされていたようです。
尊氏自身も正室は、後で幕府の執権にまでなった北条守時(赤橋守時)の妹 登子ですから、けっこうなものでしょ。
で、当初は倒幕を目論む後醍醐天皇の軍を打ち破ってしまいます。
この時、尊氏(この時点では高氏、尊氏という名は建武の新政の際に名乗ります。ややこしいのでここでは尊氏で行ってしまいます)は、父親が亡くなり家督を継いだばかりで、喪中につき戦には行かないと言いましたが、幕府は許しませんでした。
この不満が倒幕につながったなんて話もあります。
で、後醍醐は隠岐の島に流されてしまいます(1332年)。
しかし、1333年に後醍醐は隠岐島を脱出。鳥取県の船上山に籠城します。
これをやってこいと尊氏は幕府に命じられて、名越(北条)高家と共に進軍します。
この時、一緒に連れて行こうとした嫡男(後の二代将軍義詮)は、正室と共に人質として鎌倉に残させられます。
で、名越高家は緒戦で戦死。北条のお目付がいなくなったのです。
後醍醐は一生懸命尊氏を誘います。
それだけ後醍醐に魅力があったのでしょう、尊氏はあっさり後醍醐側につきます。
まあ、幕府に対する不満や恨みも大きかったのでしょうね。
ということで、尊氏は反幕府の兵を挙げ、京都をおとします。
同時に、関東では、新田義貞などが中心になり鎌倉を制圧、幕府は滅亡します。
建武新政
革命てのは、どれも成功した後の勢力争い、内輪揉めがつきものです。
そりゃあ、革命はたった一人の力だけで出来るものではありませんし、戦後の褒美に不満が出たり、男の嫉妬なんてのもありますから。
同じ源氏の新田義貞の尊氏に対する対抗心。
後醍醐の皇子である護良親王の尊氏に対する敵対心。
北畠 顕家て公家で武家というのもいますし。
まあ、ドロドロのグチャグチャですわ。
かてて加えて、後醍醐天皇というのも、かなりの曲者ですから。
もとより天皇直接の政治に武士たちの不満てのは高まりますし、そいつらが尊氏を担ぎたいという要求もありますから、天皇としては素直に尊氏を信用できません。
護良(もりよし)親王のこと
さて、この頃の武芸に秀でた人気者、後醍醐の皇子の護良親王は、征夷大将軍の称号を受けます。彼は皇位継承権第一位の皇太子です。
ところで、後醍醐には阿野廉子という寵愛する后妃がいます。
この女、護良親王の母ではありません。自分の子供、義良親王(後の後村上天皇)を帝にしたいと思っています。
そのためには護良親王をどうにかしなければなりません。
はい、尊氏とタッグを組みます。
尊氏にとっては、自分を目の敵にする護良親王は邪魔。
阿野廉子にとっては、自分の息子を帝にするのに護良親王は邪魔。
利害一致。
廉子は、後醍醐に護良親王派の武将の恩賞を少なくするようにささやきかけ、親王の勢力を削ぎます。
護良親王は、焦って、尊氏の追討の令旨を出します。
これを廉子が尊氏を通じて手に入れ、勝手にこんな令旨を出すのは天皇の位を奪う企てであると後醍醐に吹き込みます。
ということで、護良親王は捕らえられ、後醍醐はこれを尊氏に預けます。
尊氏は、鎌倉にいる弟の直義の許に護良親王を送り、幽閉しました。
中先代の乱
北条の残党が信濃で蜂起し、かなりの勢いで鎌倉に攻め込みました。(1335年)
尊氏の弟 直義は鎌倉にいましたが、ヤバイので逃げることにします。
問題は、預かっている護良親王。
これ捕らえられていると言っても、後醍醐天皇の皇太子だし、征夷大将軍だし、北条側に取られると利用価値がありすぎて困る。
ということで、鎌倉を引く前に殺してしまいます。
尊氏は弟が心配
まあ、いろいろ面倒くさいことはどうでもいいから、とにかく弟の直義を救いたいということで、尊氏は天皇の許可を貰わずに軍を率いて鎌倉に向かいます。
この人、割合、そういう人なんです。鎌倉幕府の時も、戦功をあげて天皇に謁見のはずが、放ったらかして、さっさと鎌倉に帰ったりしています。
で、後醍醐も仕方ないので征夷大将軍の位を後追いで尊氏に与えます。
尊氏は戦い、1335年の8月には鎌倉を回復します。
建武の乱
北条の残党をやっつけたら、弟が、せっかくだから鎌倉でゆっくりしていったらと言います。
だいたい建武新政には功労者の尊氏は参加していません。
まあ、政治とかそういうの面倒くさいし、柄じゃない。それに、警戒もされてるのでしょうか。
帰っても特に仕事無いから。
ということで、弟の勧めで、ゆっくりすることに。
そして、尊氏は気前が良くて、活躍した武将には、どんどん褒美をやるのです。
この人、その場で褒美を出すのです。自分の刀や、その場で持っている物をどんどんやるし、その場に持ってきてない物なら、自筆で書いた紙を渡します。
で、気前よくどんどん渡すので、うっかり同じ物を違う武将にやるなんてこともあったらしいです。
領地なんかだと、後で貰った者同士が戦う羽目になっちゃう。
この後始末は、その後の尊氏の子孫たちが苦労させられたようです。
しかし、褒美を出すというのは親分の行為です。
戦が終わったのに京都に帰らず、勝手に褒美を出している。
新田義貞のモヤモヤ
だいたいさ、なんで足利だけが源氏の頭領なんだよ。
新田だってれっきとした清和天皇につながる源氏の正しい系統なんだぞ。おれが源氏の頭領で、全然おかしく無いのに。
今度の中先代の乱だって、天皇が命じる前に勝手に行きやがって、おれが行けば、おれが征夷大将軍だったのに。
くっそお、どっちが武士の頭なのかハッキリさせてやるぜ。
ぼくの文章力が無いばかりに、新田義貞がけつの穴の小さい奴みたいに思えるかもしれませんが、本当はどうなのか、ぼくは知りません。
まあ、男の嫉妬に取り憑かれた新田義貞は、鎌倉で好きなようにやっている尊氏は謀反人だからやっつけちゃいましょうと後醍醐に訴えます。
後醍醐天皇は、そろそろ尊氏をシメとく頃合いだと考え、新田義貞に尊良親王をつけて、足利尊氏の討伐を命じました。
尊氏は、そして後醍醐は
後醍醐からの討伐命令が出たと聞き、尊氏は逆らわず、寺にこもり断髪して隠居を言い出しました。
弟直義や高師直など家来衆は、困ったものだと思いながらも、尊氏抜きで討伐軍と戦います。しかし、戦況は不利。やられちゃいそう。
ここで尊氏は、「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と言いだし、彼らを救うために出陣します。
変な人でしょう。
で、勝っちゃう。
勢いに乗って京都に入ります。後醍醐は逃げました。1336年
しかし、すぐに北畠顕家と楠木正成・新田義貞の連合軍に敗れて、九州に逃げます。
そして再び西国の武将たちを組織し体制を整えて、京都に攻め込み6月には制圧します。
ここで後醍醐天皇と和議を結び、11月に光明天皇に皇位を渡させます。
ところが、頃合いを見て後醍醐は吉野に逃げて、南朝を立ててしまいます。
1338年尊氏は光明天皇から征夷大将軍の位を与えられ、正式に室町幕府は誕生したのです。
で、南朝方の武将を次々と倒していき、1348年には高師直が吉野を焼き払い、だいたいの趨勢は決まります。
次は観応の擾乱になります
ようやく室町幕府の体裁ができてきました。
尊氏は、初代将軍として幕府に君臨しますが、政治のことは直義に任せてしまいます。
二頭政治なんて呼ばれてますね。
この前の混乱の際に、京都へ入った時、尊氏は「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」なんてことを紙に書いて清水寺に奉納したりしたんです。
そんで、直義、ちゃんとやってねということなんでしょう。
さあ、この続きは次回に
もっとグチャグチャの話になっていきます。