江戸時代になってからの福井の殿様たちのことを書きます。
変な人が多いです。
他の大名なら、お取り潰しでしょということがありますが、2代将軍の兄の家系ということで、お目こぼししてもらってます。
特別扱いで甘やかすとロクでも無いことになるという見本みたいです。
最初はそれなりの石高を与えられた福井藩ですが、変な人の出現により知行は減らされていきます。
途中から、藩のテーマは財政再建となっていくのです。
殿様は17代までいます。
全部いっぺんに書くと、疲れるし、読む気も無くなりますから、分割します。
書き方は、一人一人それぞれ、生まれ等の個人情報と、その人についてのトピックを簡単に紹介するスタイルとしました。
初代の結城秀康(松平秀康)については前回触れましたので、2代目から書きます。
2代 松平忠直
個人情報
初代藩主の秀康の長男。徳川家康の孫。
12歳の時に父の死により藩主になりました。75万石
2代将軍秀忠の娘、勝姫を正室に迎えました。いとこ同士の結婚です。
出来事など
大阪夏の陣で、戦功を上げましたが、評価というか論功行賞に不満。
ぐちゃぐちゃと幕府に対して文句を言い、面白くないので、参勤交代をサボりました。
嫁の勝姫(将軍の娘)を殺そうとしたり、家臣を殺したりで、不良藩主ですね。
幕府は隠居を命じます。藩主を降ろされます。
九州の大分の方に流され謹慎。
それでも5000石は与えられたのですから、やはり特別扱いですね。
息子 光長
母は勝姫(将軍の娘)。
父親が藩主を降ろされたので、その跡を継ぎそうになり福井に入りましたが、結局幕府は、3代藩主とは認めませんでした。
越後高田藩の藩主だった叔父の忠昌が福井藩主となり、その後、光長は越後高田藩25万石の藩主となりました。
3代 松平忠昌
個人情報
初代藩主秀康の次男。徳川家康の孫
兄の忠直が福井藩主になったので、越後高田藩の藩主となりました。
しかし、兄が不行跡で、藩主を降ろされたので、高田藩から福井藩に移動して、3代目の藩主となりました。
50万石。
出来事など
忠昌が藩主になった際、福井藩の石高が減っています。
これは、その時に、丸岡、大野、勝山、木本が福井から分離して藩となったためです。
それぞれの藩には、忠昌の兄弟、および附家老の本田が藩主となっています。
4代 松平光道
個人情報
3代藩主忠昌の次男。
父の死で、10歳の時に藩主となりました。
出来事など
藩主となった時に、父の遺言で、兄の昌勝には松岡藩5万石を分割し、弟の昌親には吉江藩2万5千石を分割して独立させることとなりました。
学問・文化の発展のために諸策を行ったことと、度重なる天災の影響で、藩の財政は悪化。
資金繰りのために、日本最初の「藩札」を発行しました。
正妻の自殺、息子権蔵の出奔
正妻との間に男子が生まれず、側室が男子権蔵(後の松平直堅)を生みました。
正妻が男子を産めないことを苦にして自殺。
側室の子権蔵は、この正妻の死の影響で身の危険を感じて出奔しました。
後に、権蔵は、松平直堅となり、幕府が面倒をみて、やがて糸魚川藩祖となります。
本人も自殺
光道は、政治的にも家庭的にも追い詰められ、弟の昌親に家督を譲ると遺言して自殺しました。
5代 松平昌親
個人情報
3代藩主忠昌の5男。4代藩主光道の弟。
吉江藩2万5千石の藩主でした。
昌親が福井藩主になるのに伴い、吉江藩は福井藩に吸収されました。
出来事など
後継騒動
4代藩主光道には、昌親の他に、兄昌勝(松岡藩主)がいて、子の権蔵(直堅)がいました。
遺言で、弟の昌親を指名しましたが、藩としては3つのグループが出来てもめました。
昌親はイヤになったのか、2年ほどしたら、兄の昌勝の長男綱昌を養子にして藩主を譲って引退してしまいます。
6代 松平綱昌
個人情報
3代藩主忠昌の長男昌勝(松岡藩主)の長男。
5代藩主昌親の養子。
出来事など
この人、理由もなく家来を殺したり、次第に奇怪な行動をとりだします。
発狂というか、ちょっと変になりました。
挙句に、江戸城登城をシカトしました。
ということで、蟄居。
普通だったら、藩はお取り潰しになるのですが、幕府との関係からそういうわけにも行かず、5代藩主昌親のカンバックということにしました。
示しをつけるために、藩の知行は半減で25万石とされました。
7代 松平吉品(よしのり)
個人情報
名前は吉品と変わりましたが、5代藩主昌親と同一人物です。
5代将軍綱吉から「吉」の字をもらって改名してます。
出来事など
知行半減で25万石になってしまったことや、6代綱昌の時の乱れもあり、とにかく財政再建。
リストラ、給料カットなどを断行して、苦労したようです。
8代 松平吉邦
個人情報
3代藩主忠昌の長男昌勝(松岡藩主)の6男。
7代藩主吉品の養子。
出来事など
財政再建、経費節減に努力。
けっこう頑張ったみたいです。
時の将軍、徳川吉宗(暴れん坊将軍)に褒められて、藩の所領25万石の他に、天領の10万石を預けてもらいました。
後は、また今度
長くなりすぎますので、今日はこの辺で