新田義貞って人を御存知でしょうか?
なんて書くと失礼になりますね。知っている人は多いと思います。
鎌倉幕府の消滅、後醍醐天皇が絡んだ南北朝時代、そして室町幕府の成立、その時代を語る「太平記」の主要登場人物です。
戦に負けて、物語を付けてもらえなかった武将に対して、世間は冷とうございます。
一緒に南朝側の武将として活躍した楠木正成と比べると、とても冷たい扱われ方です。
太平記は、後醍醐天皇が天皇による政治を復活させようとした物語ではありますが、一方で、北条による支配を打破し、源氏の世の中をもたらそうとした物語でもあります。
そして、その源氏の大将を足利尊氏と争ったのは新田義貞で、最後、足利の勝利で終わり、その足利の室町幕府時代に成立した太平記では、当然ながら新田義貞の卑小さが描かれることとなっています。
吉川英治の「私本太平記」を読んで久しいので、実は、もう内容の記憶があやしいのですが、新田義貞が小さな人間として描かれて、あまり好きになれなかったのは憶えています。
新田塚
さて、その新田義貞は、福井で死にました。
福井市の北の方、芦原街道沿いに新田塚というところがあります。
そこで雑兵の手にかかって殺されましたので、多くの例のとおり、殺されたと思われる場所に神社、塚を祀って、後世に災いをもたらさぬようにしたのです。
江戸時代に、そこら辺の百姓が土を耕していると、振り下ろした鍬か鋤の先にカチンと当たるものがあり、掘り起こしてみれば、立派な兜が出てきました。
いろいろ調べてみると、どうも新田義貞の兜である、と言うことになりました。
で、松平の殿様がこれを祀ったって寸法です。
藤島神社は市内足羽山の東側
しかしながら、新田塚ってのは、あまり良い場所じゃ無かったので、明治になってから福井市内の足羽山の東側に神社が移されました。
ほら、明治だから、天皇の世です。建武の中興の登場人物は、大事に祀られたので、その流れですね。
と言うわけで、藤島神社のいわれ
足羽山の東側には、ここ以外にも神社や寺が多くあります。
なんか理由があるんでしょうね。
ま、町中なのに山だからってのが、合理的ですが。
入り口は下界の道路沿いですが、鳥居をくぐると石段が続きます。
大した階段でもないや、と上がっていくと、折れ曲がって石段は続き、
神社のにたどり着く頃に、足が疲れたような気がして、あれ?普段の散歩は効果が無かったのかなと思ってしまいます。
でも、振り返ると
結構登ってきたのです。
さっきも書いたとおり、この辺りは、神社、寺が集まっているところで、あまり縁が無かったのですが、順に訪れてみようかなと思っています。