70代の真実

70代年金生活者の生活と思ってること、その他思がけないことも

南北朝3 観応の擾乱 室町時代のことを

足利直義高師直の対立

室町幕府は、尊氏と弟 直義の二頭体制と書きましたが、高師直は足利家の執事として尊氏につき、全てを取り仕切っていました。これは足利家だけでは無く、将軍の執事として幕府のことも取り仕切っていました。

直義、師直ともに派閥が出来てきます。

直義は、政治を行いますから、公家や既存勢力との付き合いもすることになり、自然に守旧的保守的な色合いになります。

師直の方は、新しい自分たちの時代を期待する武士達が集まり、当然革新的進歩的な色合いです。また師直自身も政治的な処理能力も高く、歌人としても有名な文化人で、なにかと直義に対抗する場面もあったのでしょう。

幕府のトップを担う二つの勢力があれば、仲の悪い武士同士が、「あいつがあっちに行くなら、おれはこっち」と、考え方とかいうこととは別に勢力のどちらかを選び、よけい派閥の対立がはっきりしてきます。

 

ちなみに肝心の尊氏は、しっかりした二人に「任せたよ」ということなのでしょうか、ほとんど隠居状態で楽にしていたようです。

 

 

前提として認識していただきたい事柄

室町幕府の話をするうえで、認識しておいていただいた方が良いので、ちょっと違う話をします。

 

足利も新田も源氏だと書きましたが、その他にも源氏の家はたくさんあります。

清和天皇貞純親王を祖とする源氏は、清和源氏とも呼ばれますが、この系図はネットにもたくさん出てますから、もし興味があれば御覧下さい。

枝分かれしていくうちに、上杉、畠山、今川、斯波、渋川、一色等々良く見る家名が出てきます。みなさん源氏。なんか親戚同士のつきあいみたいな感じがします。

 

 

上杉の高師直にたいする反感

さて、尊氏、直義の兄弟の母親の実家は、上杉です。源氏ですね

お母さんは正室では無く、側室でした。

父親の足利貞氏正室は、北条から来ており、尊氏の兄がいました。

この正室の子で長男が、足利の家督を継いだのですが、残念な事に父親よりも先に死んでしまったのです。

ということで、尊氏が足利の総領になったのです。

 

で、まだ長男が生きていた時には、尊氏、直義兄弟を上杉が支えました。

長男の補佐は、代々の足利の執事である高の仕事です。当時は高師直の父親が長男の補佐をしていました。

しかし、長男が亡くなり、尊氏が足利を継いだ時に、尊氏の補佐は高師直が務めることになり、上杉は脇に追いやられたのです。

直義は、上杉に対して同情的でしたが、上杉は高師直に対するわだかまりがあります。

 

そして、1338年に直義の執事的な役割を担ってきた上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられた事が、上杉氏及び直義の高師直への反感を強めました。

 

 

 

直義の高師直に対する攻撃

上杉や畠山あたりが、直義をそそのかし、直義は高師直の悪行を理由に糾弾し、尊氏に師直の執事職解除を認めさせました。1349年

で、なお武力をもって高師直を抹殺する計画を立てたのです。

 

高師直の反撃クーデター?

これに対して、高師直は、すばやく軍勢を率いて直義を襲いました。1349年8月

直義は、なんとか危機を脱し、尊氏の屋敷に逃げ込みました。

 

なんと、高師直の軍勢は、主人にして将軍である尊氏の屋敷を取り囲んで、直義サイドの両腕ともいえる上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを迫ったのです。

これを拒否すると、高師直は、そのまま兵糧攻めに移りました。

 

間に人が入って、話をして、結局、上杉重能と畠山直宗を配流(島流し)とし、直義は政務を離れ出家するということで決着がつきました。

 

高師直の勝利です。

直義は、出家しました。

直義が行っていた幕府の政務は、尊氏の長男、後の第二代将軍義詮が代わって執り行うこととなりました。

 

そして、上杉重能と畠山直宗は、配流先で高師直の指図で暗殺されました。

 

 

さて、尊氏は、どういう態度だったのでしょうか。

何を考えていたのでしょうか?

諸説いろいろあります。

どうなんでしょね。

 

 

足利直冬

尊氏の外腹の息子にして、直義の養子である直冬は、この年、1349年4月から長門探題を命じられて備後にいました。

義父直義の事件を知って、すぐに兵を率いて京都に行こうとしますが、高師直が軍を率いて行き、直冬は九州に逃げました。

そこで九州の南朝側の武士達と連携し、1350年に再び兵を率いて京都を目指します。尊氏は、自分の命令に従わない息子に対し、怒り、自ら軍を率いて直冬を討つために出発します。

 

 

直義の反撃

1350年10月に、直義は京都を脱出。

大和にて、味方になる武将を集めて、高師直討伐のために兵を挙げます。

 

息子を懲らしめるために備前に向かっていた尊氏は、この状況にやむなく途中で京都に戻ることになります。

北朝天皇から直義の討伐命令が出ると、直義は南朝についてしまいます。

直義は南朝方の武将も交えて、反撃に出ます。

 

そして尊氏軍は戦況不利、結局、高師直たちの出家を条件に和議となりました。

高師直一族を引き渡された直義軍の上杉と畠山は、護送途中で高師直一族を皆殺しにします。

 

そして直義は、義詮の補佐役として政務に復帰しました。

 

 

兄弟の対立

仲の良かった兄弟も、このような事態の中で、ついに対立し合うことになります。

 

直義は政務を行いますが、尊氏は将軍として武将に対する恩賞の決定を行います。

尊氏は、自分の派閥の武将に厚く恩賞を出し、直義の派閥の武将は冷遇します。

当然、武士たちの支持は尊氏に集まります。

 

尊氏は、息子の義詮と共に、それぞれ理由をつけて軍勢を引き連れ京都を出ました。

そして、再び直義を討つために京都に攻め込みます。

 

これを察した直義は、なんとか京都を脱し、派閥や南朝側の武将と共に戦います。

九州では、直冬も南朝方と共に兵を挙げます。

壮大な兄弟喧嘩です。

 

 

南朝の取り込み

尊氏は、南朝と直義とを分離するために、南朝に和議を申し入れ、結果的に北朝の無条件降伏を条件に、南朝からも直義の追悼命令を出させます。1351年10月

 

そして1352年1月、直義は鎌倉にて降伏します。

直義は鎌倉の寺に幽閉されますが、1351年2月、高師直の一周忌の日に亡くなりました。

これも死因については諸説いろいろ。毒殺とか。

 

 

再び南北朝

問題解決後、尊氏一派は南朝派と戦を始めます。

1352年3月には、南朝を京都から追い出します。

 

その後、北朝天皇を立てるのに苦労しますが、9月には新しい天皇の即位となりました。

 

以後、武士同士の反目があったりして、尊氏一派から離反することになる武将は、南朝側に付いたりとか、本当に仁義なき戦い南北朝の間で続いていきます。

これが解決するのは、第三代将軍義満の時です。

 

九州の直冬は、直義の敗戦の後は味方になってくれていた武将が離れていき、戦いに敗れた後消息不明になっています。

 

尊氏は、戦で受けた傷がもとで1358年に亡くなりました。

 

尊氏って

急ぎ足で書いてきましたが、足利尊氏って、ものすごいでしょ。

こんな人、歴史上もそれほどいません。

 

ひょっともして精神的に少しおかしいのかという気もします。

後醍醐との関係

直義、高師直との関係

息子直冬との関係

どれも普通じゃない。エキセントリックって言葉以上。

こんな人に、よく当時の武将たちはついていきましたよね。魅力があるんでしょう。不思議です。

 

九州で直冬が勢力を作ったのも、尊氏の隠し子だという事実が武将たちに効いたのです。高師直が悪人で、自分と尊氏の弟の直義をやっつけようとしているという筋書きに九州の武将たちが乗った。だから、尊氏が直接やって来たら、あっと言う間にみんなが直冬から離れてしまったのです。

離れた九州でも尊氏の人気があったということですね。

 

 

さて、次は

ということで、これにて室町幕府創世期の話は、終了します。

この次は、義満からの安定期を語るのか、あるいは「鎌倉公方」とかの話を語るのか、まだ、決めてません。

でも「室町時代のことを」シリーズは、すぐに継続開始しますので、もし読んでいただければと願っております。

 

 

この件に関しての過去の記事

室町時代のことを 南北朝2 - 子供の頃のように

室町時代のことを 南北朝 - 子供の頃のように

「ゴジラ」をぼくは観ていたのだろうか

子供の頃、ゴジラに代表される怪獣映画と、加山雄三夏木陽介佐藤允のトリオが出る戦争映画と、加山雄三若大将シリーズを新作が出るたびに観に行ったのを憶えています。

当時は封切は二本立てだったので、上記の組合せが多かったのです。

気がつけば、全部東宝ですね。

クレージーキャッツのも何作か観ていますが、母親のウケが良く無く、こっちはシリーズ全部という訳にはいかなかったのです。

 

さて、プライムビデオでゴジラシリーズがあるのは知っていましたが、まだ観てはいませんでした。

それでも、やはり第一作目の「ゴジラ」は観るべきだろうと考えました。

昼間、水野久美をテレビで見かけたので、彼女の若かった頃も見ようと思いました。

 

さて、「ゴジラ」を観てみると、白黒映画。

そうだ、当時は白黒だと納得しつつ観てたのですが、なんせ宝田明が若い。すごく若い。

スマートで背の高い二枚目。かっこいい。

誰かに似ているというか、誰かが似ているのですが、その誰かがわからないまま、二枚目ぶりに感心していました。

相手役は、河内桃子。娘役です。若い宝田明の恋人。そう、おばあちゃん役ではありません。

そんで、平田昭彦が片目の眼帯をしている科学者で出てくるのですが、これも強烈に若くて二枚目。

 

水野久美は、まだ出演していません。

調べてみると、この「ゴジラ」1954年、昭和29年の作品。

ぼくは生まれてましたが、映画が見れる年齢ではありません。

さあ、ぼくはこの映画を観ているように思っていましたが、それは単なる思い込みだったのでしょうか。

 

三作目の「ゴジラキングコング」は観に行った覚えがあります。

怪獣映画を初めて観たのは「ラドン」だったのでしょうか。

ちょっと自信ありません。

 

 

ところで、この「ゴジラ」特撮は円谷さんですが、まだチャチい感じ。ミサイルや光線がまっすぐ行かないのです。

それでも、よくできた映画でした。

筋書きもよく考えてあり、面白いです。

観て良かったと思う映画でした。

 

ゴジラ

ゴジラ

 

 

 

 

時代が違うと言うか、こういう筋書きが似合う時代だったのです。

「フレンチに遅れそうだったから」なんて言葉が、するっと口から出なかった時代。

 

で、この美男美女映画、なんとなく今の韓流映画を連想してしまいますね。

 

 

予約した本を取ってきました

なんてことを言いながら、ぼくは昼間図書館から受け取ってきた、オルガ・トカルチュクの「昼の家、夜の家」のページをめくり始めようとしています。

これ、結構厚くて、字が小さいかも。

2018年のノーベル文学賞と雑記ブログの皆さん方 朝食を食べながら

朝刊を開いて真ん中あたりの文化欄を見たら、2018年のノーベル文学賞に決まったオルガ・トカルチェクさんについての記事を見つけました。

書いたのは、小倉彩さん。

この作家の作品「昼の家、夜の家」の翻訳をした人です。

 

あれ、なんで2018年の文学賞

2018と2019を一緒に発表したんでしょうかね。

 

まあ、そんなことどうでも良いですが。

この記事に、その「昼の顔、夜の顔」の紹介が書かれています。

それを果物やトーストを食べ、コーヒーを飲みながら読みました。

 

 

チェコとの国境沿いの小さな町に移り住んだ語り手の日々の覚書、回想、夢、占い、聖人伝、料理のレシピなどの100を超えるばらばらの断片が、「土地」を共通のモチーフとしてゆるやかに関連づけられ、最終的にはポーランド西部国境地帯の歴史が浮かび上がる仕掛けらしいです。

山間の自然の中で淡々と過ぎていく語り手(主人公?)と隣人達の日常には、たしかに「森の匂い」が漂う気がすると書かれています。

 

ぼくは、この記事を読んでいて、ふと、みなさんのブログを思い浮かべました。

いろんな日常の断片。

それが綴られていき、そこに皆さんの生活が描かれ、総合的にみなさんの人生が浮かび上がってくる。

ま、ちょっと大袈裟ですが。

 

これ雑記ブログだけの話ですが、意図するしないのかかわらず、まあほとんど意図してないでしょうけれど、それでも、もしブログを続けていけば、そういうことになっていくブログもありそうですね。

 

この前から、自分の生活をぼんやりと描いていくのって、けっこう面白いのかなと思い始めています。

露出趣味では無いですが、今の自分の生活が、断片的にやわやわとスケッチされ、それが集まっていく。俳句もね。

描きたいのは、ようやく掴んだ素の自分、もう仕事のための仮面やヨロイを脱いじゃった自分と家内との、どっちかがボケるか死ぬかまでの、そんなに長くは無いかもしれない今の生活、幸せ。

それをさっぱりと書いていく。

そんなこと考えている時に、この記事を見つけました。

 

 

この「昼の家、夜の家」面白いのでしょうか?

ぼくの思っているのと違うんでしょうね。

わからないので、コーヒーすすってiPhoneで市立図書館に予約を入れました。

三冊あって、どれも貸出可能状態。

さっき準備が整いましたとメールが来ました。

 

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

 

 

 

 

室町時代のことを 南北朝2

鎌倉幕府滅亡までをかいつまんで

足利家というのは、鎌倉幕府でもそこそこ大事にされていたようです。

尊氏自身も正室は、後で幕府の執権にまでなった北条守時赤橋守時)の妹 登子ですから、けっこうなものでしょ。

 

で、当初は倒幕を目論む後醍醐天皇の軍を打ち破ってしまいます。

この時、尊氏(この時点では高氏、尊氏という名は建武の新政の際に名乗ります。ややこしいのでここでは尊氏で行ってしまいます)は、父親が亡くなり家督を継いだばかりで、喪中につき戦には行かないと言いましたが、幕府は許しませんでした。

この不満が倒幕につながったなんて話もあります。

 

で、後醍醐は隠岐の島に流されてしまいます(1332年)。

しかし、1333年に後醍醐は隠岐島を脱出。鳥取県の船上山に籠城します。

これをやってこいと尊氏は幕府に命じられて、名越(北条)高家と共に進軍します。

この時、一緒に連れて行こうとした嫡男(後の二代将軍義詮)は、正室と共に人質として鎌倉に残させられます。

 

で、名越高家は緒戦で戦死。北条のお目付がいなくなったのです。

後醍醐は一生懸命尊氏を誘います。

それだけ後醍醐に魅力があったのでしょう、尊氏はあっさり後醍醐側につきます。

まあ、幕府に対する不満や恨みも大きかったのでしょうね。

 

ということで、尊氏は反幕府の兵を挙げ、京都をおとします。

同時に、関東では、新田義貞などが中心になり鎌倉を制圧、幕府は滅亡します。

 

 

建武新政

革命てのは、どれも成功した後の勢力争い、内輪揉めがつきものです。

そりゃあ、革命はたった一人の力だけで出来るものではありませんし、戦後の褒美に不満が出たり、男の嫉妬なんてのもありますから。

 

同じ源氏の新田義貞の尊氏に対する対抗心。

後醍醐の皇子である護良親王の尊氏に対する敵対心。

北畠 顕家て公家で武家というのもいますし。

まあ、ドロドロのグチャグチャですわ。

かてて加えて、後醍醐天皇というのも、かなりの曲者ですから。

 

もとより天皇直接の政治に武士たちの不満てのは高まりますし、そいつらが尊氏を担ぎたいという要求もありますから、天皇としては素直に尊氏を信用できません。

 

護良(もりよし)親王のこと

さて、この頃の武芸に秀でた人気者、後醍醐の皇子の護良親王は、征夷大将軍の称号を受けます。彼は皇位継承権第一位の皇太子です。

ところで、後醍醐には阿野廉子という寵愛する后妃がいます。

この女、護良親王の母ではありません。自分の子供、義良親王(後の後村上天皇)を帝にしたいと思っています。

そのためには護良親王をどうにかしなければなりません。

はい、尊氏とタッグを組みます。

 

尊氏にとっては、自分を目の敵にする護良親王は邪魔。

阿野廉子にとっては、自分の息子を帝にするのに護良親王は邪魔。

利害一致。

 

廉子は、後醍醐に護良親王派の武将の恩賞を少なくするようにささやきかけ、親王の勢力を削ぎます。

護良親王は、焦って、尊氏の追討の令旨を出します。

これを廉子が尊氏を通じて手に入れ、勝手にこんな令旨を出すのは天皇の位を奪う企てであると後醍醐に吹き込みます。

ということで、護良親王は捕らえられ、後醍醐はこれを尊氏に預けます。

尊氏は、鎌倉にいる弟の直義の許に護良親王を送り、幽閉しました。

 

 

中先代の乱

北条の残党が信濃で蜂起し、かなりの勢いで鎌倉に攻め込みました。(1335年)

尊氏の弟 直義は鎌倉にいましたが、ヤバイので逃げることにします。

 

問題は、預かっている護良親王

これ捕らえられていると言っても、後醍醐天皇の皇太子だし、征夷大将軍だし、北条側に取られると利用価値がありすぎて困る。

ということで、鎌倉を引く前に殺してしまいます。

 

 

尊氏は弟が心配

まあ、いろいろ面倒くさいことはどうでもいいから、とにかく弟の直義を救いたいということで、尊氏は天皇の許可を貰わずに軍を率いて鎌倉に向かいます。

この人、割合、そういう人なんです。鎌倉幕府の時も、戦功をあげて天皇に謁見のはずが、放ったらかして、さっさと鎌倉に帰ったりしています。

 

で、後醍醐も仕方ないので征夷大将軍の位を後追いで尊氏に与えます。

 

尊氏は戦い、1335年の8月には鎌倉を回復します。

 

 

建武の乱

北条の残党をやっつけたら、弟が、せっかくだから鎌倉でゆっくりしていったらと言います。

だいたい建武新政には功労者の尊氏は参加していません。

まあ、政治とかそういうの面倒くさいし、柄じゃない。それに、警戒もされてるのでしょうか。

帰っても特に仕事無いから。

ということで、弟の勧めで、ゆっくりすることに。

 

そして、尊氏は気前が良くて、活躍した武将には、どんどん褒美をやるのです。

この人、その場で褒美を出すのです。自分の刀や、その場で持っている物をどんどんやるし、その場に持ってきてない物なら、自筆で書いた紙を渡します。

で、気前よくどんどん渡すので、うっかり同じ物を違う武将にやるなんてこともあったらしいです。

領地なんかだと、後で貰った者同士が戦う羽目になっちゃう。

この後始末は、その後の尊氏の子孫たちが苦労させられたようです。

 

しかし、褒美を出すというのは親分の行為です。

戦が終わったのに京都に帰らず、勝手に褒美を出している。

 

新田義貞のモヤモヤ

だいたいさ、なんで足利だけが源氏の頭領なんだよ。

新田だってれっきとした清和天皇につながる源氏の正しい系統なんだぞ。おれが源氏の頭領で、全然おかしく無いのに。

今度の中先代の乱だって、天皇が命じる前に勝手に行きやがって、おれが行けば、おれが征夷大将軍だったのに。

くっそお、どっちが武士の頭なのかハッキリさせてやるぜ。

 

ぼくの文章力が無いばかりに、新田義貞がけつの穴の小さい奴みたいに思えるかもしれませんが、本当はどうなのか、ぼくは知りません。

まあ、男の嫉妬に取り憑かれた新田義貞は、鎌倉で好きなようにやっている尊氏は謀反人だからやっつけちゃいましょうと後醍醐に訴えます。

 

後醍醐天皇は、そろそろ尊氏をシメとく頃合いだと考え、新田義貞尊良親王をつけて、足利尊氏の討伐を命じました。

 

尊氏は、そして後醍醐は

後醍醐からの討伐命令が出たと聞き、尊氏は逆らわず、寺にこもり断髪して隠居を言い出しました。

弟直義や高師直など家来衆は、困ったものだと思いながらも、尊氏抜きで討伐軍と戦います。しかし、戦況は不利。やられちゃいそう。

ここで尊氏は、「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と言いだし、彼らを救うために出陣します。

変な人でしょう。

で、勝っちゃう。

勢いに乗って京都に入ります。後醍醐は逃げました。1336年

しかし、すぐに北畠顕家楠木正成新田義貞の連合軍に敗れて、九州に逃げます。

そして再び西国の武将たちを組織し体制を整えて、京都に攻め込み6月には制圧します。

 

ここで後醍醐天皇と和議を結び、11月に光明天皇皇位を渡させます。

ところが、頃合いを見て後醍醐は吉野に逃げて、南朝を立ててしまいます。

 

1338年尊氏は光明天皇から征夷大将軍の位を与えられ、正式に室町幕府は誕生したのです。

翌年、後醍醐天皇崩御

で、南朝方の武将を次々と倒していき、1348年には高師直が吉野を焼き払い、だいたいの趨勢は決まります。

 

 

 

次は観応の擾乱になります

ようやく室町幕府の体裁ができてきました。

尊氏は、初代将軍として幕府に君臨しますが、政治のことは直義に任せてしまいます。

二頭政治なんて呼ばれてますね。

 

この前の混乱の際に、京都へ入った時、尊氏は「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」なんてことを紙に書いて清水寺に奉納したりしたんです。

そんで、直義、ちゃんとやってねということなんでしょう。

 

さあ、この続きは次回に

もっとグチャグチャの話になっていきます。

 

 

前回のは、室町時代のことを 南北朝 - 子供の頃のように

 

 

今日の九州場所 栃ノ心勝った

相撲協会仕事してよ

今、3時過ぎから十両の取組を見ていると、ちょっと前の幕内。みんな1時間ほど早く出てきているって感じです。

栃煌山vs勢、矢後vs東龍とか、魁聖vs千代翔馬なんて取組。

他にも、貴源治豊ノ島、大奄美等々、みんな落ちてきたんだ。

でね、栃煌山や矢後みたいに、故障抱えて元気のない姿見てると、なんだか寂しくなります。

 

幕内でも、昨日は友風、初日に豪栄道、はなっから鶴竜とか、みんな怪我ばかりです。

なんか工夫って無いのでしょうか、相撲協会

巡業を見直すとか、何か考えないと。

 

立ち合いについての行事の判断、どうなの?

力士と行事合同の確認というか研修会みたいなのはどうなの?

なんか先場所に続いて、今場所もダメダメです。

 

相撲協会は大相撲を守るための何かしているのでしょうか?

全く何もせずに、ただ今までと同じように漫然と継続しているだけみたいな感じですが。

 

今日は面白かったのですが、昨日までは、なんとなく気が抜けたようで、いまいち熱中できませんでした。

ポテンシャルが落ちている感じ。

ラグビーやボクシングの面白いのを見た後で、相対的に相撲がつまらなく見えるのでしょうか?

相撲協会側の熱意が全く感じられないから、つまらない雰囲気がしているのでしょうか?

 

どうもね。

 

そのうち相撲人気が無くなり、一時期みたいになりそうな気がします。

何もしないのなら、役員に立候補しないで欲しい。

というか、引退した相撲取りに運営を任せていること自体、マズいんでしょうね。

文化庁の責任か。

 

 

気を取り直して今日の九州場所

大翔鵬と照強の取り組みの時の夫婦の会話

「次だれ?」

「あの大翔なんとかって3人の中の可愛いやつ」

「大翔丸、大翔鵬、大栄翔のどれか、同じ名前ばかりつけて親方あかんやろ」

「ああ大翔鵬」

「どっち勝つかな」

「照強だろ」

「そうやね、てなわんから」(注:てなわんは福井弁、意味は照強の顔を見ると分かります)

「うん、大翔鵬は可愛いから、あれに負けてしまうだろ」

 

「あ、やっぱり負けた」

「なんとか勝ってやろうって顔だもんね、照強」

「いつまでも可愛い顔してたらあかんよ、大翔鵬」

「引き上げる時も可愛い顔やね」

 

炎鵬vs阿武咲

「阿武咲すこし細くなった」

「絞ったんやろ、顔が良くなった」

「どっち勝つかな」

「どっちも勝つといい」

「そやね、どっちも頑張れ」

 

「立ち合い合わない」

「昨日の朝乃山の真似して、二回合わせないんじゃないの、作戦で」

「あ、ほんとや」

「炎鵬勝った」

「こういう作戦、炎鵬は許す。朝乃山は体が立派だから、あんなことして勝ったらあかんけど」

「そやね、朝乃山はあかんね」

 

今日の解説は春日野と舞の海

栃ノ心の取組、春日野に聞くなよって画面に言ったけど、実際、春日野は何も言葉を発しませんでした。

今日も負けるみたいな気がして、あああ、春日野、気をしっかり持てよと念じてました。

 

勝ちました。勝ちましたね栃ノ心

ああ、良かった。

春日野が何か言うのに、勝ってからちょっと間がありました。

 

北勝富士の取り組みから後は、全部良かったですね

特に、貴景勝と大栄翔の取組、素晴らしかったです。

なんか今場所はつまらないと思ってたのですが、あの相撲で熱が戻りました。

 

舞の海、学ばないねえ

初日の北の富士の強烈なイヤミ、全然効いてません。

テレビで、人気商売してる者が、あんなこと言うのよほどです。

ずっと一緒に解説しているから、少しでも舞の海のためにと思って言ったのでしょう。

 

舞の海、全く学んでいません。

今日も、気持ちよくとうとうと喋りまくってましたけど、あれ、言うの半分にしたら問題も無くなると思うんだけどなあ。

 

どうしても気付いてしまうことはある   南ア2番ボンギ・ンボナンビは松鳳山

ふふふーんふふふふーふーふふふーふふふー

     このあたりのメロディーがわざとらしい。ま、そのおかげで・・・

 

ふふふーふふふふーふふーふふふふーふーふー

原曲の、なんと素直で伸びやかなことか

 

 

あ、鼻歌を文字で書かれてもわかりませんよね。

あんまり気にしないで下さい。

 

 

 

あ、あんま気にしないでというのが、もう一つ

この前のラグビーW杯の南アフリカチーム。

 

あの、背番号2番、ボンギ・ンボナンビ、なんか気になったし、変に親しみを感じるのは何故だろうって思ってましたが、九州場所の初日に気づきました。

 

あの背番号2は、松鳳山が頭を剃って出ていたのじゃないか、なんて。

 

すんません、気にしないで下さい。

 

 

   ふと思う気になることや濡れ落ち葉

 

 

タイトルの後半は、検索対策です。

って、そんな検索だれもしないよ。

室町時代のことを 南北朝

以前書きましたように、ぼくは図書館から借りてきた本をきっかけに、室町時代を勉強し直す気になりました。

当初、トピックだけ選んでランダムに調べる態度でしたが、まあ、ちゃんと時間軸にそってやろうやないかと言うことで、室町時代の始まりから見ていこうと思いました。

 

で、ノートを作ろうかということなのですが、初期の頃の室町時代をまとめていくには、あまりにもごちゃごちゃしすぎていて、ノート作るの大変なんです。

 

基本的に室町時代は、どの時期もゴチャゴチャしています。

 

まあ、そういうことで、とりあえず幕府創成期、南北朝時代についてはノートを諦めて、資料見ながらブログ記事としてまとめてみようか、ブログをノート代わりにしようかと考えました。

 

面白い時代ですから、もしよろしければ、読んでみてください。

 

前提 当時の主従関係

ヤクザ映画を御覧になりますか?

うちはVシネマの長いシリーズ「日本統一」を無料になる都度観ておりまして、もう30巻くらいは観進んでいます。

 

この「日本統一」は、本宮泰風(原田龍二の弟ですね)と山口 祥行の演じる仲良し不良が、横浜から神戸に流れ、そこの大きなヤクザ組織に入って、どんどん頭角を現し、日本中のヤクザを組織化していくという内容なのです。

で、このVシネでは、地方のヤクザの組が、どの連合に参加するのか、あるいはヤクザがどの親分の子分になるのかというのは、完全にその人たちの欲と都合、どこが勝ち残っていくのかという打算によるものなのです。

 

まあ、お話なので、男に惚れるとかいう要素はありますが、基本的に打算。

 

室町時代の侍たちも、完全に打算で動きます。

ですから、昨日までの味方が今日の敵という事もよくあります。

その大将のために戦いますが、褒美に不満があれば、当然裏切ります。

「裏切り」という概念すら無かったんじゃないでしょか。ま、そんなことは無いか。

 

今回メインで取り上げる足利尊氏だって、当初は鎌倉幕府の命令で後醍醐天皇一派をやっつけるけど、そのうち後醍醐天皇の味方になって、鎌倉幕府・北条政権を倒してしまいます。

で、建武の中興となりますが、また後醍醐天皇の敵となり、これを追放して北朝天皇を立ててしまい、南北朝時代に突入します。

自分の弟との対立で、いつのまにか弟が南朝側になったり、その弟にやられて不利になると、今度は自分が南朝側になったり、自分の外腹の息子と対立して戦ったり、他の武将たちもけっこうあっちに付いたりこっちに付いたりで、本当にみなさんドライです。

 

江戸時代に確立した主従関係の道徳みたいなものが、当たり前だと思っているのは大きな間違いです。

これ前提で考えてくださいね。

 

 

前提 足利尊氏人間性・性格

イメージは、基本的にこの人悪役ですよね。

それは、なんと言っても後醍醐天皇の敵となる訳ですから、特に戦前においては大悪人ということになってました。

 

 

しかしね、良い時もあれば悪い時もある人生で、この人波乱万丈なのに、いろんな武将が付いていくのです。

そりゃあ敵になる時もあるけど、その後子分に戻ったりします。

で、この人、そういうのも許しちゃって子分に戻して、挙句に褒美までやったりするのです。

ぼくは、この人、太っ腹で、みんなに好かれる人なんじゃ無いかという気がしています。

ぼろぼろの時代もあるけど、結局日本中の侍の親玉になるんですから、本人にかなりの魅力があるはずです。

 

 

だから、単純に悪役てのは違うのかなという気がしています。

 

例によってWikipediaを見るのですが、こう書かれた文章を見つけました。

以下、引用。

尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあった夢窓疎石が次の3点から説明している(『梅松論』)。

  1. 心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
  2. 生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
  3. 心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。

 

死を恐れず、人を恨んだり憎んだりせず、気前が良い。

そういう男だったということですね。

 

はっきり言えば、豪胆なお人好し。

細かい事は不得手だったみたい。

それにけっこう相手を思う気持ちが強くて、優柔不断だったりもするようです。

政治は他の人に任せちゃいます。

 

例えば、誰かが何か訴えに来たり頼みに来たりすると、「ああ、そうかそうか」なんて言っちゃって、

「おーい、師直」

「あ、こいつ高師直。うちの執事。こいつが上手いことするから、こいつと相談して」

とか、

あるいは

「おーい、直義」

「あ、こいつ直義、おれの弟。こいつきっちりしてるから、こいつと相談して」

なんて感じ。ま、完全にぼくの妄想ですが。

 

だいたい戦に出ても、「え、状況不利なの。いいよ、わかったよ。ダメだったら、おれ腹切るから、タイミングだけ教えてね」なんて本当に言ってたらしい。

 

 

前提 足利尊氏の人間関係

足利直義

これ、同じお母さんの兄弟。

仲が良い兄弟です。鎌倉幕府を倒して、ずっと一緒にやってきた。

性格は兄と違い、きちんとしていて政治向き。ただ、考え方が古い。保守的。

 

高師直(こうのもろなお)

足利家の執事。執事って言っても、召使ではありません。

最重要、最有力の家臣(と言っても、上記の当時の主従関係見てくださいね)、足利家のいろんなことを取り仕切り、幕府を開いたら幕府のいろんなことも取り仕切りました。

尊氏は、すっかり丸投げ。

戦が上手かった、強かった。

それに政治、管理的なことも、革新的で進歩的で能力がありました。

 

小説や芝居、歴史の中でも、悪役。

そんで好色。他の武士の奥さんなんか、どんどん手を出します、旦那が逆らったら、さっさと滅してしまいます。

ただ、こういう性格も、尊氏が悪人として描かれるのと同じで、そういう創作だったのかもしれません。

 

 

足利直冬

これ、尊氏が、どっかのよくわからない女に産ませた子供。

産ませたというより、女を抱いたら、そん時に子供が出来ちゃったという感じ。

だから、直冬が父親に会いたいとやってきた時も、全く対面しない。当然、認知もしません。

相手にしない。

NHK大河ドラマでは、この母親は宮沢りえが演じてました。まだ彼女が可愛くて綺麗だった頃のドラマです。

 

この直冬、尊氏が会ってくれないものだから、弟の直義のところに行って、自分が尊氏の息子であると訴えます。

おそらく母親は、ある程度ちゃんとした家の娘だったのかなと思うのですが、直義は、この直冬を自分の養子にしました。

この時点では、直義に子供がいなかったのです。それに尊氏が「あれはおれの子だと思う」くらいのことは言っていたのでしょう。「お前、なんとかしてよ」って。

 

尊氏の正室は、なんか実家が滅びたのか、まあ、そんな感じの状況で後ろ盾が無くなっていたので、尊氏はよけいのこと正室を大事に守ってやりました。

だから、他の女との間にできた子供なんか、家に入れられないと考えたのでは無いかという学者もいます。

 

直冬という名前も、直義の養子になって付けてもらった名前です。

 

 

足利 義詮(あしかが よしあきら)

これは尊氏の息子です。

足利幕府第二代将軍。

 

 

 

前提はこれくらいにして

さて、室町幕府の最初の頃のことをまとめていきます。

観応の擾乱(じょうらん)を中心に書いていくつもりです。

 

だから鎌倉幕府が倒れた後、建武の中興以降の二代将軍足利義詮あたりまでの、グチャグチャですね。

 

ということで、それは次の回のはなし。